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「才女」はなぜ「悪女」になったのか~娘の夫を惑わせた妖婦・藤原薬子~

秋野麗

筆者は普段から歴史を偏愛し、書籍や資料から彼ら彼女らの人物像を想像するのが好きだ。

平安時代初期、二所朝廷──文字通り二つの朝廷が存在し、権力を巡る激しい政治的対立が起こった時期があった。あわや大規模な争乱にもなりかけたその事件の中心には、藤原薬子という女性がいた。

日本史に縁遠い方にとっては聞き覚えのない名前かもしれない。彼女は、現在放映中の大河ドラマ『光る君へ』に登場する権力者・藤原道長と同じ藤原一族の女性である。とはいえ、藤原道長が藤原北家出身であるのに対し、薬子は藤原式家の出身だ。藤原式家が没落し、藤原北家が発展するきっかけとなった事件が、薬子の変だったと言われている。

娘の夫・平城帝から寵愛を受けた藤原薬子

平城太上天皇が天皇として即位する前、安殿(あての)皇太子と呼ばれていた時代。皇太子の妃となる娘に伴って、薬子は宮中に上がった。あろうことか安殿皇太子は娘ではなく、母である薬子に夢中となり、二人は男女の関係となってしまう。

DESIGNECOLOGIST/Unsplash

安殿皇太子の父・桓武天皇は激怒して二人の仲を引き裂く。しかし桓武天皇が崩御して安殿皇太子が平城天皇に即位すると関係は元に戻り、薬子は天皇の寵愛を一身に受けるようになる。女官の最高位である尚侍(ないしのかみ)に昇格し、兄の仲成と共に政治へ介入するようにまでなった。

ところで安殿皇太子は、一説によると、現在で言うところの躁うつ病を患っていたらしい。感情の起伏が激しく、ノイローゼ気味で病弱だった。即位後は熱心に政治に取り組むも、病気のこともあってか、わずか四年で弟・神野親王に皇位を譲ってしまう。神野親王が即位して嵯峨天皇となり、平安京で新政を始める中、平城天皇は遷都前の平城京へと居を移す。

しかし。平城天皇は譲位したことを次第に後悔し始め、権力を取り戻そうと画策した。810年9月6日、ついに平城京への遷都命令を出し、権力の掌握を試みる。だが、嵯峨天皇側はこれに素早く反応し、9月10日には仲成を捕縛し薬子の官位剥奪を宣言。11日、平城天皇は薬子を伴って東国へ向かい、挙兵を試みるが、先手を打って嵯峨天皇が派遣した坂上田村麻呂が待ち伏せていたためこれを断念。同日、仲成が平安京にて射殺される。

12日、平城京に戻った平城太上天皇は剃髪し出家した。一方の薬子は毒を煽って自殺。これが薬子の変の経緯である。

qimono/Pixabay

この事件の呼称が薬子の変なのは、藤原薬子が事件を引き起こした原因であったとされていたからだ。
薬子は美貌と色香で年若い皇太子を誑かし、尚侍となってからは国政を壟断した。平城太上天皇を操って重祚(ちょうそ:退位した天皇が再度帝位に就くこと)を唆し、再び権力を手にしようとするが失敗して滅びた悪女。それが長い間通説とされてきたが、近年では違った見方が一般的となっている。

平城太上天皇は決して薬子・仲成の操り人形ではなかった。重祚や挙兵に際しても主体的に動いて帝位奪還を試みたのは平城太上天皇の意志であった。薬子は都合よく罪をなすりつける人間として使われただけだ、というのである。この見方は近年強まっており、日本史の教科書には、一連の事件を薬子の変ではなく平城太上天皇の変という呼称で載っている。

確かに薬子を事件の首謀者であるとする歴史書『日本後紀』は、勝者である嵯峨天皇によって編纂されたことを考えると、この説は一理ある。天皇家の威信を守るために平城太上天皇を庇い、薬子と仲成を悪者にしたと考えられるからだ。

真実がどうなのかはさておき、私は個人的にこの説には賛成したくない。

なぜならば、悪女の存在こそが、歴史を彩る華であると信じているから。

ただでさえ日本には悪女らしい悪女が少ないのだ。ここで藤原薬子まで悪女枠から外れてしまったら、日本史に咲くひと際美しい悪の華が失われてしまうではないか。

どうにも病弱でヒステリックな印象が強い平成太上天皇だが、わずか4年の在位期間中に政治と経済の立て直しを図っている。彼が主体性を持って一連の事件を起こしたと言う点はあながち間違いではないかもしれないが、薬子が積極的に加担しなかったとは言えまい。薬子自身も事件において中心的な役割を果たし、悪女らしく暗躍したのであろう。この考えに従って、薬子の最期を妄想してみると……。

稀代の妖婦、毒杯を煽りて死す

毒杯に添えた指先は震えていなかった。

それが己の豪胆さを示す証であるように思え、薬子は少し安堵した。死を前にして、恐れも動揺もなく、敵の手にもかからず。潔く毒を煽る私は、少なくとも死に様だけは美しいはずだ。

私の生涯は汚らわしく見苦しいものとして、後世に語り継がれるのであろうが……薬子は唇を歪めて自嘲の笑いをこぼした。

歴史は時の為政者によって、都合良く改竄されてしまうものだ。だから薬子は自らが権力をほしいままにできる立場となると、父の復権を図った。続日本紀において削除されていた父の暗殺事件に関する記述を復活させ、太政大臣の位を追贈するように平城帝―上皇様に働きかけた。尊敬する父の威信を取り戻すために。そして自らが桓武天皇の寵臣として権勢を誇った政治家、藤原種継の娘であることを、人々の間に印象付けるために。

これから向かう冥土で、父はどのように自分を迎えるだろうか。若き帝を誑かし、争乱まで起こそうとした娘の悪行に青ざめ、叱責するかもしれない。いや、案外、「失敗に終わったとはいえ、そなた、なかなかよくやったではないか。惜しかったな」などと苦笑混じりに呟いてくれそうな気もする。

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「薬子様……!」

侍女の声が、薬子の回想を破った。

「知らせが参りまして……主上のご意向により、上皇様はご出家されることになりました」

こうべを垂れて述べる侍女に、薬子はほっと息をついた。

「そうか、なら良い。これで思い残すことなく逝ける」

かつて父の暗殺事件の首謀者として捕縛された早良親王は、配流となった末に憤死した。数年前、自分と仲成で謀って陥れた伊予親王は、幽閉されて間もなく自死した。権力を巡る闘争においては、皇族と言えど容赦なく死に追いやられることが常である。上皇が仏門に入るだけで罪に問われぬのは、寛大な処置と言ってよい。

──薬子。必ず後から参れよ。

別れ際の上皇の声が耳に蘇った。

東国の挙兵を阻まれて平城京に戻ると同時に、薬子と上皇は共に乗っていた車から降ろされて引き剥がされた。

離れる寸前、安殿は薬子の袖を掴んで後から参れと告げたのだった。縋るような目で見つめてくる上皇に、いつもと変わらぬ包み込むような微笑みを向けたのが最後となった。

「薬子様。思い留まっていただけませぬか。上皇様は薬子様をお待ちでいらっしゃいます」

「愚かなことを申すな。主上が私をお赦しになると思うか。万に一つ、赦しを得られたとして、仏門に入られた上皇様にお仕えできるはずがない」

俯いた侍女に、薬子は室から退出するように促した。

「上皇様の処遇が決まった今、私は私自身に決着をつけねばならぬ。すべて終わるまで、外で見張っておれ」

侍女を追い出すと、薬子は毒杯を取り上げた。

思い残すことなく逝けると言ったのは嘘だ。つかみ損ねた権力と栄華にはだいぶ、未練がある。願わくばこの平城京で帝位に返り咲く上皇を見たかった。そしてその隣で、政(まつりごと)に関わってみたかったと切に思う。

「上皇様。最後の約束を果たせずに逝くこと、お許しくださいませ」

長らく寵愛を賜った、十も年下の男に最期の言葉を残すと、薬子は一息に毒を煽った。

※これは筆者の想像によるものです

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似て非なる傾国の美女・藤原薬子と楊貴妃

薬子と酷似した運命を辿った女性として、真っ先に思い浮かぶのが中国の楊貴妃である。薬子よりも数十年ほど前に亡くなった楊貴妃もまた、時の皇帝である玄宗の寵愛を一身に集めた。しまいには安史の乱を招いてその責を問われ、死を余儀なくされている。

だが、薬子が楊貴妃と決定的に違う点は、政治や権力を巡る陰謀において中心的役割を果たしたとみることができる点である。楊貴妃は寵愛のままに贅を尽くした生活に溺れたが、薬子はその寵愛を使って政治に介入するようになった。彼女の飽くことなき野心、権力への渇望が見え隠れするところがたまらなく好きだ。

もし、桓武天皇の右腕として活躍した父・藤原種継の政治的才能が、彼女にも受け継がれていたとしたら。もし、薬子の変が成功して平城太上天皇の重祚が実現していたら。政治家としての才能を存分に発揮する薬子の姿が史書に見られたかもしれない。

薬子の変における平城・薬子側の挙兵は、行き当たりばったりなものだったとよく言われている。

しかし、この通説にも近年では疑問が呈されている。平城太上天皇は在位中に観察使という地方行政監察の役職を作り、譲位前後に自分の派閥の貴族をこの役職に任命して勢力拡大を試みているのだ。また、仲成は平城太上天皇の譲位から変の勃発に至るまでに、北陸観察使、近江守、伊勢守といった役職を歴任している。嵯峨天皇は平城太上天皇の遷都命令に際して、いち早く伊勢・近江・美濃の三関に使いを遣わして守りを固めているが、これは平城太上天皇と仲成の勢力圏を壊すためだったとも考えられるだろう。

薬子が仲成・平城太上天皇と計画して、用意周到に勢力版図を広げていたとすると、薬子の策略家・政治家としての一面を垣間見ることができるのではないだろうか?

娘婿を籠絡した妖婦・藤原薬子もいいが、政治家として辣腕を振るった稀代の女宰相・藤原薬子こそ誕生してほしかったなぁ、としみじみ思う。

きっとそのとき、日本史に咲く悪の華はもっと毒々しく、美しかったに違いないから。

【主な参考文献】
西本昌弘『薬子の変とその背景』国立歴史民俗博物館研究報告第134集(2007年刊行)
久冨木原玲『薬子の変と平安文学:歴史意識をめぐって』愛知県立大学文学部論集 国文学科編56号(2008年刊行)

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