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なぜピクサーはいつだって懐かしいのか。〜『トイ・ストーリー』から探る創作術〜

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「なぜピクサーはいつだって懐かしいのか。〜『トイ・ストーリー』から探る創作術〜」。千葉集さんが書かれたこの記事では、ピクサーへの偏愛を語っていただきました! 3DCGアニメーションのトップランナー「ピクサー」  (Author:Coolcaesar、CC-BY-SA.3.0) ピクサーについてお話させていただきます。 1995年の『トイ・ストーリー』以来、ピクサーは3DCGアニメーションのトップランナーとして2024年現在までに30作近い映画を世に放ってきました。 その歴史は輝かしい傑作にいろどられています。『モンスターズ・インク』、『ファインディング・ニモ』、『Mr.インクレディブル』、『レミーのおいしいレストラン』、『ウォーリー』、『インサイド・ヘッド』、『マイ・エレメント』⋯⋯。だれもが子どものころに一度は見て、魅了されたおぼえがあるのではないでしょうか。 かくいうわたしも一作ごとに初めての鑑賞したときの思い出を鮮明に思い出せます。『インサイド・ヘッド』や『トイ・ストーリー4』での「別れ」のシーンでは非常に心打たれたのをおぼえていますし、『ファインディング・ドリー』に至ってはドリーに自分を重ね合わせて上映中ずっとマジ泣きしておりました。 あるいは、大人になってから観た作品でも楽しめたり、感激した経験を持っているひともいるでしょう。 ピクサー作品は、たとえそれが2024年に作られた初見の作品であっても、どこか懐かしさをまとっています。 そもそも、一作目である『トイ・ストーリー』からしてノスタルジックな味わいが顕著です。『トイ・ストーリー』の特徴とは、古いものしかないことだといってしまってもいい。 そういうと疑問に感じるもいるでしょう。 「『トイ・ストーリー』とは世界初の長編フル3DCGアニメーション作品であり、長らくディズニーが支配してきたアメリカのアニメ映画界にピクサーという新星が現れた画期であり、これまでのアニメにはなかったフレッシュなストーリーテリングを実践した物語であり、とにかく『新しさ』しかなかったのじゃないか」と。 その見方はただしい。『トイ・ストーリー』は技術的側面に関しては圧倒的に新しかった。 古くて懐かしいのは、『トイ・ストーリー』で描かれた世界のことです。 『トイ・ストーリー』は「みんなが観たいと思うもの」とは違っていた みなさんとうにご承知かともおもいますが、『トイ・ストーリー』のあらすじはこう。 とある郊外の一軒家、アンディという少年が子供部屋で想像力を羽ばたかせていろんなおもちゃでごっこ遊びをしています。 なかでもアンディのお気に入りは西部劇の保安官の人形、ウッディ。ウッディはアンディ少年の親友を自負し、アンディのおもちゃたちのリーダー的存在でもありました。 そこにある日、アンディへのプレゼントとして最新鋭のアクションフィギュアである宇宙飛行士バズ・ライトイヤーがやってきます。アンディはすっかり新しい人形に夢中。 持ち主の寵愛を横取りされたウッディは、嫉妬心からバズにいたずらをしかけますが、それがとんでもない方向へ転がっていき⋯⋯というお話。   制作当時、映画の出資者でもあったディズニーのCEOマイケル・アイズナーは「男の子がお人形遊びする話なんて、だれが観たいとおもうんだ?」(*1)と首を傾げたそうです。 (*1:Charles Solomon『The Toy Story Films:An Animated Journey』White Plains) 今から振り返るとあまりに見る目のなさすぎる発言ですが、しかし当時の情勢をふり返れば、無理からぬ受け取り方でもあります。ディズニーの考える「みんなが観たいとおもうもの」は『トイ・ストーリー』とは違っていました。  どういうことか。 『トイ・ストーリー』の監督をつとめたジョン・ラセターのディズニー時代の師匠的な存在(1981年に『きつねと猟犬』の冒頭シーンを共同して担当)であった伝説的アーティスト、グレン・キーンは「ピクサーとディズニーの違い」を問われてこう答えました。 >> ピクサーとディズニーそれぞれの特徴を一言で表すとするなら、ピクサーは「もし"こう"だったらクールじゃない?」、ディズニーは「むかしむかしあるところに……」だ。すぺてのピクサー映画は子どもの目線になって、「もしもおもちゃがしゃべれたら?」といったようなことを考えることから出発する。 出典:https://www.cloneweb.net/rencontre-avec-glen-keane << 今でこそ、完全オリジナル作品が多いディズニーの長編アニメーション作品ですが、2000年代以前はおとぎ話や子ども向け文学作品をベースにした映画ばかりでした。 それこそ「古いもの」の再解釈とノスタルジーがディズニーの十八番だったわけです。 『美女と野獣』を振り返る 1991年公開の『美女と野獣』を見てみましょう。本作ではルーカスフィルムの傘下にあった当時のピクサーチームの開発による3DCG技術が話題となり、ピクサーとも縁深い作品です。あとまあ、個人的に最近海外を訪れたさいに現地で観たミュージカル版の『美女と野獣』がめちゃよかったので。 古くからあるおとぎ話をブロードウェイ・スタイルのミュージカルとして再話したこの映画のラストシーンでは、いろいろあって何もかもうまくおさまり、ヒロインであるベルと王子さまである(元)野獣が親密そうにダンスする姿を見たある子どもが、「これでふたりは『いつまでも幸せに暮らしました(Happily Everafter=おとぎ話の最後につく「めでたしめでたし」的な常套句)』になるの?」と母親に訊ね、母親は「もちろんよ」と答えます。そして、メインテーマソングでもある『Beauty and The Beast』のサビがリプライズされます。 >> Tale as old as time. Song as old as rhyme. Beaty and the Beast. 時のはじまりからある古い物語。 詩(韻)のはじまりからある古い歌。 それが美女と野獣。 << そうして、しあわせな二人の姿がステンドグラスとして伝説に刻まれ、幕が降ろされます。 何重にも「これはおとぎ話ですよ」と強調されるわけです。 (『ヨーロッパのおとぎ話』という1916年の本に付されたジョン・B・バッテンによる『美女と野獣』の挿絵) 個人的にも『美女と野獣』は大好きな映画で子どものころから何回も観ていますが、そのファンの眼からしてもプロットや話運びにやや強引なところがあるのは否めません。 しかし、ひとびとの共同的な記憶であるおとぎ話や民話を下敷きにすることで、そうした無理やりさを中和しつつ、ある種の懐かしさを帯びさせる。ここにおいてノスタルジーは、たんなる雰囲気やなんとなくの感触ではなく、はっきり戦略として用いられています。 ディズニーは、ウォルト・ディズニーのころからノスタルジーを武器にしてきた会社です。みんなが知っている物語を、現代に即した形でチューンナップしつつ、同時に安心できる懐かしさを提供すること。それが旧来的なディズニーにとっての「みんなが望む物語」です。 最新作の『ウィッシュ』は、そうしたまなざしを自社作品そのものに向けたという点でよくも悪くも興味深いのですが、話をピクサーに戻しましょう。 『トイ・ストーリー』はわたしたちがかつて見ていた世界でもある グレン・キーンの物言いに従えば、ピクサーはディズニー式のおとぎ話を採用しません。それは大衆性を放棄しているという意味なのでしょうか?   もちろん、違います。『トイ・ストーリー』は、ディズニーとは別の仕方でひとびとの共通の記憶にアクセスしているのです。 おもちゃに想像を託して遊ぶこと。それは多くの人間が子ども時代に通ってきた道です。あのころは生命なき人形たちがほんとうに生きているかのように感じ、純粋に友だちのようにおもえた。「もし、おもちゃたちが生きてて喋ることができたら⋯⋯」という『トイ・ストーリー』の What if  は、ただ設定として意外性があるというだけでなく、こうした子どものリアルな心情の反映でもあります。『トイ・ストーリー』の世界は、われわれがかつて見ていた世界でもあるのです。 このようなセッティングが普遍的でないわけがない。ピクサーがディズニーと別の経路でひとびとの共通の記憶にアクセスしているとは、そういうことです。ノスタルジーを呼び起こすという点では、実はおなじ戦略を取っていました。 そして、『トイ・ストーリー』がおもしろいのは、そうした普遍的な子どもたちの記憶と同時に、ジョン・ラセターの個人的な思い出も埋め込まれていることです。 ピクサーの黎明を描いた『ピクサー 早すぎた天才たちの逆転劇』(ハヤカワ文庫NF)などでも触れられている有名な話ですが、ウッディの「取り付けられている紐を引くと録音されたセリフを喋る」という仕掛けは、ラセターが子ども時代に大好きだったおばけのキャスパー人形から得たものです(*2、*3)。また、もうひとりの主人公であるバズも、やはりラセターの好きだったアクションフィギュアであるG.I.ジョーをモデルにしています。映画公開に合わせてバズのおもちゃを出したときも、バズのフィギュアはG.I.ジョーのサイズに合わせて作らせたという逸話もあります。 (*2:映画公開当時のインタビューでは実際にその人形をカメラの前に見せていますから、よほど愛着があったのでしょう) (*3:David A. Price『The Pixar Touch』Vintage) 1957年生まれのラセターは、60年代から70年代にかけての少年期をカリフォルニア州のホイッティアという街で過ごしました。ホイッティアはもとはガチガチに保守的な田舎町でした(ニクソン元大統領の出身地でもあります)が、戦後の開発によって人口が倍増し、リベラルな郊外の空気も混じるようになりました。ラセターが育ったのは、そんな時期です。 (カリフォルニア州ホイッティアのダウンタウン) 批評家のジョシュ・シュピーゲルが指摘するように、『トイ・ストーリー』には、そんなラセターの少年時代の記憶が色濃く反映されています。みなさんもわたしも同様、マクドナルドで『トイ・ストーリー』シリーズのハッピーセットが出るたびに死に物狂いでコンプリートしたことかと思いますが、実はあれらのおもちゃの一部は『トイ・ストーリー』のオリジナルではありません。 『トイ・ストーリー』に出てくるウッディのおもちゃ仲間のうち、じゃがいもを模したミスター・ポテトヘッド、バネのおもちゃであるスリンキーをダックスフントと合体させたスリンキー・ドッグ、緑色の兵士のおもちゃであるアーミーメン、日本では「つなぐでござる」の愛称で親しまれている繋げるサルのおもちゃバレル・オブ・モンキーズ、これらはすべて50〜60年代にかけてアメリカで人気を誇った実在のおもちゃです。当時最もあたらしいおもちゃに見えたバズ・ライトイヤーでさえ、そのコンセプトは「1950〜1960年代のSF映画やテレビ番組の宇宙飛行士を彷彿とさせ」(*4)ます。 (*4:Josh Spiegel『Yesterday is Forever: Nostalgia and Pixar Animation Studios』The Critical Press) 一方で、90年代当時に流行していた最新のおもちゃは実名で登場しません。99年公開の『2』でようやくスーパーファミコンらしきゲーム機が出てくるくらいでしょうか(*5)。 (*5:ビデオゲーム自体はピザ屋附設のゲームセンターという形で『1』にも出てきます。)  『トイ・ストーリー』の世界は一見90年代的な風景に見えますが、こうして巧妙に現代的なものを隠蔽し、ラセターの過ごした60年代にこっそり塗り替えているのです。  そしてそのことがまた普遍性に貢献してもいる。新しいものは常に古びる可能性がありますが、すでに古く懐かしいものは(その時代を体験していないものにとってさえ!)永遠に古く懐かしいままです。 個人の記憶を普遍性に還元する物語づくりに挑みつづける (Mr.ポテトヘッド。Author: c'est la Viva/ CC-BY-SA 3.0) アニメ界の革新者であるラセターは、同時に伝統主義者でもありました。2006年にピクサーはディズニーによって買収され、ラセターはディズニーのアニメーション部門の最高責任者を兼ねるようになりましたが、そのときに彼がまず行ったのは80年代から「ウォルト・ディズニー・フィーチャー・アニメーション」となっていた社名を、「ウォルトが映画を作っていたときの名前に近い」(*6)という「ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ」に変え、手描きアニメーション時代のディズニーのベテランたちを呼び戻すことでした。 もともと、ディズニーは2004年の『ホーム・オン・ザ・レンジ』を最後に2Dアニメーションを放棄することを宣言していたわけですが、3Dの寵児たるラセターはそれを覆して新作2Dアニメーション作品を製作しはじめたのです。 (*6:https://www.gamesradar.com/interview-john-lasseter) 3D進出と並行して行われたディズニーの2D回帰路線は商業的には失敗に終わるのですが、時代に逆行してでも古き良きものを残そうとしたのです。実際、2009年の『プリンセスと魔法のキス』は歴史に残る一作になったといえるでしょう。つづけてほしかったなあ⋯⋯。TVシリーズや短編だと今でも2Dをやってはいるんですが⋯⋯。そうそう、去年の『ウィッシュ』の同時上映の短編『ワンス・アポン・ア・スタジオ -100年の思い出-』は100年分のディズニーキャラをインクと紙という文字通りの手描きで再現していて、泣きそうになりましたね⋯⋯。 さておきつ、3D時代のアニメの先駆者として知られ、実際キャリア初期には3Dの可能性を追い求めたことで憧れだったディズニーを追い出されたラセターですが、そうした彼のイメージと、上のような懐古的な態度はすこしズレがあるように見えるかもしれません。 2011年にラセターはアメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)のインタビューでこう語っています。 >> どんなに面白くてアクションに満ちた目に楽しい映画だとしても、最後に大事になるのはハートです。それはひとびとの心に残り、キャラクターへの愛となります。 私が特別誇りにしているエピソードがあります。『トイ・ストーリー』の公開から5日ほどたったころ、私はダラスフォートワース空港に家族といました。そこに通りすがった小さな男の子が、ウッディの人形を抱えているのを見たんです。 そのとき、私は悟りました。あのキャラクターたちは、もう私のものではなく、あの子たちのものになったのだと。 出典:htps://www.youtube.com/watch?v=eS192sE4wLY << 自らの思い出への愛着を作品に託して世に出し、それらを後の世代に明け渡して、「みんな」の記憶にすること。 その草創からアニメーションは技術の発展とともにあり、最新の技術を追求して表現の幅を広げていくことはアニメーションを志すものにとっては当然の営為でした。そうした技術に、物語やキャラクターにハートが乗ることで万人へ届く感動が生じるのです。 それは実はラセターの憧れであるウォルト・ディズニーも同様だったのですが、さておき、ラセターだけでなく、ピクサーは会社としても個人の記憶を普遍性に還元する物語づくりに挑みつづけています。 『ファインディング・ニモ』や『インサイド・ヘッド』は監督であるアンドリュー・スタントンとピート・ドクターそれぞれの子育ての経験から発したものですし、『私ときどきレッサーパンダ』では監督のドミ・シーが中国系カナダ人として不安定な思春期時代を過ごしたことが、『ソウルフル・ワールド』では主人公とおなじく元ミュージシャンだった脚本のケンプ・パワーズのアフリカ系コミュニティでの感覚が(*7)、それぞれ映画に深く根ざしています。 (*7:Disney+『ピクサーの舞台裏』(2020年) 個人的に興味深いのは、最近ではピクサーの初期作品それ自体がミレニアル以下の世代のノスタルジーとなりつつあることです。わたしは昨年、東京ディズニーリゾートのトイ・ストーリー・ホテルに泊まったのですが、子どもたちはもちろん『トイ・ストーリー』世代のお父さんお母さんも、ホテル内に施された意匠に反応したり、ホテル内レストランで食器をお片付けするともえらるロッツォのシールを嬉々として集めたりしているのを見ました。ラセターの思い出はいまやわたしたちの思い出なのです。 ピクサー作品はつねに新しくて懐かしい。だからこそ、誕生から三十年を迎えようとしている現在でも、わたしたちを魅了しつづけているのです。   【他参考映像・文献】 レスリー・アイワークス監督『ピクサー・ストーリー〜スタジオの軌跡』(2007年) ブラッド・ラックマン監督『トイ・ストーリー20周年スペシャル:無限の彼方へ さあ行くぞ!』(2015年) エド・キャットムル、エイミー・ワラス、石原薫訳『ピクサー流 創造するちから』ダイヤモンド社(2014年)

「Re:ゼロから始める異世界生活」のエミリアの人気を取り戻したい

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は『「Re:ゼロから始める異世界生活」のエミリアの人気を取り戻したい』。かんそうさんが書かれたこの記事では、『「Re:ゼロから始める異世界生活」のエミリア』への偏愛を語っていただきました! 「Re:ゼロから始める異世界生活」のエミリアを愛している。どれくらい愛しているかというと、ラノベやアニメを履修済みなのは当然ながら、2019年にリゼロのパチスロが導入された瞬間、それまで10年以上絶っていたパチスロをまた始め、毎回打つたびにどんなに収支がマイナスになろうがエンディングに辿り着くまで諭吉をサンドに突っ込み続けたくらい愛している。 しかし、リゼロファンの中ではエミリアよりもレムのほうが人気だという結果が何度も出ており、そのたびに俺は血の涙を流し、苦虫を噛み潰すような、いやナツキ・スバルを噛み潰すような思いをしてきた。なぜ、どうしてエミリアの魅力が伝わらないのか、この世界は間違っている。だったら俺が教えてやる。 「君が自分の嫌いなところを10個言うなら、俺は君の好きなところを2000個言う」 とは、1期第25話『ただそれだけの物語』でスバルがエミリアに言ったセリフですが、今から俺がスバルの代わりに2000個言いたいと思います。 荒野に咲く一輪の花のような可憐な笑顔 雪のように麗しい銀色の髪 脳髄に直接響く甘く切ない銀鈴の声 思わず吸い込まれそうになる紫紺の瞳 絹のように透き通った肌 しなやかに伸びた美しい手足 ツンと尖った耳 前髪からのぞかせる細眉 そんな自分の魅力に気づいてないところ 自分よりも他人を優先し、困ってる人を放っておけないところ なのにそれを認めようとせず真逆の態度を取るところ 氷魔法使いなところ 魔法使いなのに身体能力も高いところ 何事にも一生懸命で目標のために努力を惜しまないところ 嬉しいくせに恥ずかしがるところ エミリアたんって呼んだだけで頬を赤らめるウブなところ 自分も楽しみにしてるくせに「でいと(デート)”してあげる”」って言っちゃう素直じゃないところ 世間知らずなところ 天然なところ 意外と嫉妬深いところ 嘘がつけないところ 世話好きなところ 部屋着がかわいいところ 年上なのに子供みたいに純粋な一面があるところ 図太そうに見えて心配性なところ 決して他人を見下さないところ どれだけ周りに疎まれようが自分を見失わないところ おっとりした性格なのに決断は迷わない思い切りの良さ 綺麗なものをまっすぐ綺麗だと思える無垢なところ 「すごく」じゃなく「すごーく」と伸ばして言うところ 家事が苦手なところ 音痴なところ 焦ると早口になるところ 子供に優しいところ なにがあっても諦めないところ ケガをした人間に無茶をさせないところ でも自分のことは顧みずに大切な人を助けるためならどんな相手でも立ち向かうところ キスしたら赤ちゃんができると思ってるところ 「キス」じゃなく「ちゅー」っていうところ 勉強熱心なところ 身長164センチなところ 実年齢100歳超えているのに精神年齢は子供なところ すぐお姉さんぶるところ 合理主義ぶってるけど全然そうなれていないところ 友達少なそうなところ でも一回仲良くなったらなによりも大事にしそうなところ 仲良くなった相手だけに喜怒哀楽を見せてくれるところ 幼少期のほっぺたプニプニなところ 自分の弱さを認め、強くなろうと思えるところ 後ろから支えるんじゃなく隣で一緒に戦ってくれるところ 恋愛感情というものがよく分かってないところ 誰かを危険にさらさないためにわざと冷たい言い方をするところ そのくせすぐ他人を信じてしまうところ 「しっかりしている自分」を演じているところ でもどこか抜けているところ 疲れた時になにも聞かずに膝枕してくれるところ 太ももやわらかそうなところ 「ちょっと」と言いつつちゃんと付き合ってくれるところ 聞かれたくないことは聞かないところ 泣き顔もかわいいところ 怒った顔もかわいいところ 全部かわいいところ 「おったまげた」「おかんむり」「おたんこなす」などたまに喋り方が古臭くなるところ 「しっかりしている自分」を演じているところ でもどこか抜けているところ 身だしなみに無頓着なところ でも結局なに着ても似合っちゃうところ 強がってるけど実は寂しがり屋なところ なんでも自分でやろうとする意地っ張りなところ ただ甘やかして肯定するだけじゃなく悪い時はちゃんと悪いってくれるところ 弱さを他人に見せようとしないところ でも信頼している人の前では感情的になっちゃうところ 誰かに守られる存在じゃなく誰かを守る存在でありたいと思っているところ がんばったらがんばったぶんだけご褒美をくれるところ 「ごめん」よりも「ありがとう」を大切にしているところ 公平な世界を望むところ 人の幸せを願い人の不幸を悲しむことができるところ おっぱいデカいところ 俺より先に死なないところ 独り言が多いところ 「バカ」を褒め言葉として言ってくれるところ 人間界に来たらコンビニに感動しそうなところ 意外と酒に強そうなところ 字が綺麗そうなところ クレーンゲームとかムキになって何時間もやりそうなところ 待ち合わせの時間をちゃんと守りそうなところ むしろ20分前には着いてそうなところ 結構前から着いてたのに「待った?」って聞いたら「勘違いしないで!今来たとこだから!」とか言いそうなところ 野良犬に懐かれそうなところ 浴衣とかめっちゃ似合いそうなところ 一駅二駅くらいなら余裕で歩いて帰りそうなところ 何時間でも本屋にいられそうなところ 食べ物の汁が服についてシミになるのをなによりも嫌がりそうなところ 炊飯器の予約スイッチ押すのよく忘れそうなところ おなか鳴ったらめっちゃ恥ずかしがりそうなところ マラソンのペース配分間違えてすぐ疲れちゃいそうなところ 店員でも他の女子と喋ったりするとちょっとムッとしそうなところ スーパーで半額シールがちょうど貼られたらすごい嬉しそうな顔しそうなところ おみくじとか意外と信じそうなところ 初めて来た街でもすぐパン屋見つけそうなところ 唐揚げにレモンかけるかどうかちゃんと聞いてくれそうなところ たい焼き頭か尻尾どっちから食べていいか分からなそうなところ ホルモンいつ飲み込んだらいいか分からなそうなところ 葬式中にクシャミが出そうになっても我慢しそうなところ 洗濯洗剤と柔軟剤間違えそうなところ カラオケで店員入ってきたら歌うのやめそうなところ ゾロ目見たら喜びそうなところ 遊園地のコーヒーカップめっちゃ回しそうなところ LINEの返信早そうなところ 自撮り下手そうなところ マックでナゲットとポテト頼んでナゲットのソースにポテトつけて食べるのをすごい発明したみたいに自慢してきそうなところ 日焼けとかめちゃくちゃ気にしそうなところ コンビニでもらったクーポン付きレシートちゃんと取っておきそうなところ 朝起きたら これ以上は編集に「やめろ」と言われたのでこのあたりで一旦終わりにしておきます。少しはエミリアの魅力が伝わったでしょうか。残り1886個につきまして、知りたい方は個別にご連絡ください。 https://twitter.com/Rezero_official/status/1849405488313610414 さて、11月からリゼロのパチスロ新機種『Re:ゼロから始める異世界生活season2』が導入されています。 そう、またエミリアのためにサンドに渋沢栄一を突っ込むだけの生活が始まってしまう。勝てるかどうか?そんなのは関係ない。エミリアの笑顔を見るためなら俺は何度だって栄一を突っ込み続ける。これが俺の「Re:ゼロから始めるパチスロ生活」だ。

全マンガ読み必読の「埋もれた」超傑作『ヴァンパイア十字界』をネタバレ抜きで紹介する。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「全マンガ読み必読の「埋もれた」超傑作『ヴァンパイア十字界』をネタバレ抜きで紹介する。」。海燕さんが書かれたこの記事では、『ヴァンパイア十字界』への偏愛を語っていただきました! 「大事なものを失ったのがどうした 這い回ったのがどうした 復讐を否定されたのがどうした それくらい私だって見たぞ ――いや それ以上のものさえ私は見ている お前はまだずっとましだ そんなもので支えられた剣を私に誇るな 私を殺したければ 私以上の地獄を見つけるがいい」 引用:城平京&木村有香『ヴァンパイア十字界』 埋もれた傑作などめったにないはずだが――あった。 https://twitter.com/Sin_Utyouten/status/1787141861465071919 それは、物語を愛する人々の心に宿るひとつの甘い幻想である。 どこかに、その破格の内容にもかかわらず、あまり知られていない、あるいは不当に評価されている「埋もれた大傑作」があるのではないか。その作品は、真にその作品を愛でるべき読者の手がとどかないまま、いまも膨大な出版物の山のなかに静かに眠っているのではないか。そういう、いかにも甘すぎるファンタジー。 現実には、とくにこのインターネット時代においては、そのような作品が存在する可能性は限りなく低い。 いまでは、どれほどマイナーな場所で発表された作品であろうと、だれかが見出し、正当に評価し、光をあてて情報を広めるものであり、埋もれた傑作がいつまでも埋もれている可能性はほとんどないのだ。 そう、ずっと埋もれたままの傑作など、まず、ない。そう断言してもかまわないように思われる。じっさい、わたしもまったく思いつかない――たったひとつの「例外」を除いては。 その唯一無二の「例外現象」こそがこの『ヴァンパイア十字界』なのだ。 緻密に練られた構成、幾たびとなくくり返す逆転、ドラマティックかつ悲劇的な物語、長く印象に残るキャラクター。いずれも、いままで読んできた物語のなかで最高水準であり、読後には唖然として言葉が出ないレベルの傑作というしかない。 原作の城平京が手がけたマンガ作品には素晴らしいものが多いが、そのなかでも圧巻の最高傑作というべきであろう。 あるいは、2000年代に発表されたすべてのマンガのなかでも、たとえば『進撃の巨人』などと並び最高峰を争う名作であることに、わたしはまったく疑いを抱かない。 だが、それにもかかわらずこの至上の作品は十分に読まれ、評価されているとはいいがたい。 もちろん、一定の層には読まれているし、最後まで読み終えた人の評価は総じて高いのだが、それでも、その内容の充実さを考えると、やはり「埋もれてしまった」作品と見ることが正しそうだ。 城平京の他の作品には『スパイラル ~推理の絆~』『絶園のテンペスト』『虚構推理』などアニメ化され、好評を博した有名作品が多々あるだけに、かれが手がけたマンガのなかでも白眉ともいうべきこの『ヴァンパイア十字界』が広く知られていないことはあまりにも惜しく感じられる。 これこそまさに「もっと評価されるべき」真のマスターピースだ。 あなたがもし、まだこの魂の物語を読んでいないのだとすれば、どうかわたしの言葉を信じていますぐ読んでみてほしい。 全九巻とコンパクトにまとまっており、一気に読み上げてしまうこともできると思う。読後には最高の満足感が待ち受けていることを保証する。 ほんとうにほんとうに素晴らしい物語だけが持つ、ため息すら出ないような感動。この作品はそういった格別の読後感をあたえてくれる、数少ない本物の名作のなかの一つなのである。 なぜ、この名作は埋もれたのか。 https://twitter.com/kuga_54/status/1806445312153919687 ただ、正直にいえば、それでもなお、十分に高く広く正しく評価されることなく「埋もれた傑作」になってしまった理由もわからないではないのだ。 一つには、作品のリアリティラインの問題がある。物語は「国を失ったヴァンパイアの王」ローズレッド・ストラウスの一千年の時をかけた長い旅から始まり、その後、じつに意外な方向へ二転三転していくことになるのだが、その構想の雄大さは最初の時点ではまったく見えないといって良い。 初めのあたりはごく凡庸な「中二病」のファンタジーと見える、いや、そうとしか見えないのである。 かつて、マンガ批評家の伊藤剛は名著『テヅカ・イズ・デッド』の冒頭において、「ガンガン系」のマンガが偏見の目にさらされ不当に低い評価を受けている事実を指摘し、そのような見方を批判したが、そうはいっても「ガンガン系」の特異なリアリティラインに反発を感じる読者は多いだろう。 『ヴァンパイア十字界』は一見するとその「ガンガン系」のごくありふれた一例と映るところがたしかにある。 強大な魔力を暴走させ一国を滅ぼした吸血鬼の女王アーデルハイトに、封印された彼女を探し求める亡国の吸血鬼王ストラウス、さらにかれが千年のあいだ戦いつづけるかつての愛娘ブリジット、そして、全人類のなかでたったひとりストラウスに対抗する力を持つ女性「黒き白鳥(ブラック・スワン)」と、いかにも「中二病」的といいたくなるような設定がそろっていて、あたかもただ「ハッタリ」や「雰囲気」で物語を演出しているかのように見える。 あまりにも広げた風呂敷が大きすぎて、とても満足に回収し切れるとは思えないような一面があるのだ。 どうせ、ただそれらしい設定をそろえて登場人物を戦わせることに終始するばかりのありきたりな「バトルもの」に過ぎないだろう。冒頭のあたりを読んで、そう判断する人物がいたとしても、わたしはまったく責められない。 むしろ、そういうふうに読むのが当然というものだ。第一話の時点でクライマックスの展開を予想できる人がいるとすれば、それは想像力というより妄想力がたくまし過ぎるというものである。 まさか、ストラウスの目的に、あのようなすさまじい真実がひそんでいようとは――。しかし、この記事ではあくまでネタバレは避けることにした。物語の先の展開についてふれることはやめておこう。 https://twitter.com/crosstaichi/status/1828046495465242918 とにかく、この作品、始まりのあたりではのちに待ち受ける雄大無比な展開をまったく想像できない構造になっており、しかもその構造こそが物語をでたらめに面白くしているその本質なのである。もし、そのすべてをここで書いてしまったなら、この作品の魅力は半減することだろう。 したがって、第一巻より第二巻、第二巻より第三巻と、物語はさまざまな謎を秘めつつ尻上がりに面白くなってゆく。いったい、ほんとうにこのすべての謎が解き明かされる結末が待っているものなのかどうか、そう疑ってしまうほどに。 ところが、物語が終盤に至ると、なんとすべての謎は疑問の余地なく解き明かされてしまうのだ。しかも、そこに展開する光景はまさに想像を絶するものだ。 世界を救うため立ち上がったダムピール(半吸血鬼)たちの軍団を敵にまわし、さらには転生を続ける代々の「黒き白鳥」を殺害しつづけ、ただひたすらに愛する妻の封印を解こうとするローズレッド・ストラウスの真意はどこにあるのか? その「隠された真実」があきらかになったとき、物語はまったく違う様相を見せる。そう、物語を読み進めれば読み進めるほどにつのるある感覚、何かがおかしい、いったい何が――そういうかすかな違和感が積み上がっていったその先に、孤独な吸血鬼王ストラウスが見た地獄がある。 傷つき、血まみれとなったヴァンパイアの王が、その美しい頬に哀しい微笑を浮かべて「それが政策だ」と呟くとき、あまりに凄惨で絶望的な真実の果てに見えるもの――それは、ひとりの傑出した「王」の壮絶なる覚悟である。 そうだ、これはあるひとりの真の王の物語なのだ。王とは何者なのか、どれほどの負担を強いられるものなのか、この物語は容赦なくそのことを描き出す。 かつて、一千年の昔、ストラウスが見たもの、そしてその後の長きときにわたってかれが背負ったもの、本来であれば個人が背負うべきではなく、背負えるはずもないもの、その重さに比べれば、『DEATH NOTE』で神を気取った夜神月なども、しょせんは覚悟が足りぬとすら思われてくる。 そのくらい、ストラウスの人生は過酷であり、その王としての使命は重すぎるのだ。しかし、ここで少しでもそのことについて明かすわけにはいかない。どうか、わたしの言葉を信じて、この作品を読んでほしい。必ず最後にはこの上なく純粋な感動にたどり着けるはずだ。 一篇の優れた「本格ミステリ」として読むべし。 https://twitter.com/ISLAY_MALT_RYO/status/1796411454054387836 たしかに一見するといかにもリアリティラインが低く設定されているように見えるし、中盤であきらかになる「ある設定」はさらに作品世界のリアリティを崩しているように見えるかもしれない。じっさい、ネットにはそのように評価している人も見つかる。 だが、『ヴァンパイア十字界』の本領は、あきらかにそういったところにあるのではない。それらはあくまでひとつの「背景設定」であり、「ゲームのルール」を成立させるためのコマなのだ。 城平京は本格ミステリ大賞を受賞している優れたミステリ作家である。そして、この作品を最後まで読めば、これがSFでもファンタジーでもなく、本格ミステリの方法論で書かれていることはあきらかだろう。 そして、まさに『ヴァンパイア十字界』はミステリがミステリとしてたどり着くことができる最高の境地へ至っている。わたしはそう考える。 すべての物語は「一千年前、ヴァンパイアの女王アーデルハイトを巡って何が起こったのか」、そのたったひとつの謎から派生している。ただ、見る人、語る人によってその謎には異なるものが見えるだけなのである。 すべての真相を知っているのは赤バラと呼ばれる王ローズレッド・ストラウスただひとり。かれの真意を知る者は敵にも味方にもだれひとりいない。その、暗澹(あんたん)たる孤独の深さよ。 この構造は、映画脚本の世界では、黒澤明の名作『羅生門』から採って「羅生門効果(ラショーモン・エフェクト)」と呼称される種類のものだ。 事実は一つ。しかし、真実は人の数だけある。だからこそ、あらたな語り手があらわれるたび、それは異なる姿を見せる。 だが、そうなのであれば、そのたびごとに異なったかたちを見せるいくつもの「真実」のそのさらに向こうにある唯一の「事実」とは何なのか。そのすべてが解き明かされるとき、ついに最後の悲劇の幕が開く。 いったいだれが悪かったのだろう、何をまちがえていたというのだろう、なぜこのようなことになってしまったのだろう、読後、考えさせられることは数多い。 しかし、一つたしかにいえるのは、それらすべてを乗り越えたストラウスの覚悟の崇高さだ。 かれこそは至高の王、君主のなかの君主。ヴァンパイアたちの夜の王国を統べるために生まれ、その覚悟を背負って育ったただひとりの人物。結果として国を滅ぼすことになってしまってもなお、それは揺るがない。 そのことは、物語を読み終わったときにはだれもが実感しているだろう。 https://twitter.com/Sayama01Sayama/status/1787782803331096642 たしかに『スパイラル』も『絶園のテンペスト』も『虚構推理』も傑作だし、きわめて素晴らしい作品といえるのだが、それでもぼくが『ヴァンパイア十字界』こそ城平京の最高傑作だと信じるのは、そのどこまでも哀しく凛然とした英姿がいつまでも記憶に残るからだ。 物語の中盤において、ストラウスは想い人の復讐のためにかれのいのちを狙い、五十年にもわたって地獄を見てきたと語る若者に対し、冷たい目で語る。 「大事なものを失ったのがどうした 這い回ったのがどうした 復讐を否定されたのがどうした それくらい私だって見たぞ ――いや それ以上のものさえ私は見ている」と。 その言葉はまさにほんとうなのである。一千年前の「その事件」において赤バラの王が見たもの、それからずっと見つづけているものは、ただ愛する者を失うといったあたりまえの悲劇の次元に留まるものではない。 だが、まさにそうであるからこそ、かれはしんじつ気高い王なのだ。はたしてひとりの人間がこれほどの重荷を背負うことは正しいことなのだろうか。読後には、何ともいえない重いものが残る。 決して気楽に読み捨てられる作品ではない。だが、だからこそこれは本物の傑作だ。読書人生のすべてをかけておすすめする。『ヴァンパイア十字界』、これこそはまさに読むべき物語であり、広めるべき作品だと。 どうかお願いだ、あなたも読んで、この「なぜか埋もれてしまった大名作」を世の中に広める伝導の使徒のひとりになってほしい。何もかも終わったそのあと、赤バラ王の伝説の全貌を知り、それを語り伝えることができるのは、ただ、読者たるわたしたちだけなのだから。

「サイコパス役マニア」の私が絶賛するアイドルが演じたサイコパス映像作品

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「「サイコパス役マニア」の私が絶賛するアイドルが演じたサイコパス映像作品」。かんそうさんが書かれたこの記事では、サイコパスへの偏愛を語っていただきました! 私はドラマや映画に登場する悪役、サイコパス役が大好きな人間です。「サイコパス役だいすきクラブ」という団体(所属人数1名)を立ち上げ、会長を務めるなど、精力的に活動をしています。 なかでも特に私が興奮を感じるのがアイドルが演じる悪役、サイコパス役。普段は圧倒的なヒーロー、ヒロインとしてその輝きでファンを狂わせ続けているアイドルが真逆の立ち位置でその力を発揮したとき、震え上がるほどの魅力が生まれるのです。 今回は、私が愛したアイドルが演じた悪役、サイコパス役を紹介したいと思います。少しでもその魅力が伝われば幸いです。 菊池風磨(ギバーテイカー) https://www.youtube.com/watch?v=Rzjk1sIwXlA 喜志ルオト。「幸せは奪い取るもの」という異常な考えを持ち、12歳で教師・樹(中谷美紀)の娘を殺した通称・殺人騎士。医療少年院を出てからも樹に執着を見せ、樹の大切な人間を奪おうと犯行を繰り返す。 悪役、サイコパス役の演技は、ことエンタメに限っては「やりすぎ」なくらい「やりすぎ」なほうがいいのですが、菊池風磨はそれを完全に理解し、ある意味「楽しんで」この喜志ルオトという役を演じることで、夢に見たサイコパスを詰め込んだようなキャラクター性に、菊池風磨の色気が絡み合い、一癖も二癖もある唯一無二の「味」となっていました。 特に、ルオトが務めているパン屋の娘を洗脳し、店長を殺させようとするシーンで、 ルオト「うん…悪くない…」 と下卑た笑みを浮かべながら自らトドメを刺すシーンは、普段ステージやバラエティで見せる菊池風磨の顔とは全くの「別物」。これぞ「アイドルが悪役をやる意味」が凝縮された最高のシーンで、私は白目を剥きながら気絶しそうになりました。 山田涼介(グラスホッパー) https://www.youtube.com/watch?v=_IBfRi08f-E 蝉。裏社会で生きる若き殺し屋。人間離れした身体能力とナイフ捌きで、一回りも二回りもデカい男たちを絶命させていく。 ダンスで培った山田涼介の華麗な身のこなしはまさに「殺し屋役を演じるために生まれてきた」と言っても過言ではありません。 冷酷なだけでなく、上司・岩西を殺され対峙することになる鯨(浅野忠信)の洗脳を解くために自らの耳を切り落とすなど、ただでは死なない悪役としての根性を見せるなど最初から最後まで魅力たっぷりのトッポのような役でした。 特に印象に残ったシーンが「いつもなに考えながら殺るんだ?」と問われた時の回答です。 「なんも考えちゃいねぇよ。仕事だから殺る、それだけだ。どいつもこいつも殺されるってことの意味がわかってねぇ。シジミは泡を吐くんだ。人間もシジミみたいに呼吸をすんのが泡でわかりゃいいのにな…。そうすりゃ、殺す方も殺される方も、生きてる意味ってのがもっと分かるかもな…」 まったく意味が分からない。言ってることの意味の分からなさ=悪役としての魅力なのです。 風間俊介(それでも、生きてゆく) 三崎文哉。幼児に対して異常な執着を見せ、学生時代に親友・深見洋貴(永山瑛太)の妹をその手にかけ、少年院を出所してからも殺人未遂を繰り返す。 特に衝撃的だったシーンが終盤。彼を理解したいと洋貴は10分以上にも及ぶ心からのメッセージを投げかけます。しかし、文哉の心には0.1ミリも届かず 「ごはんまだかな」 とテメェの空腹を心配するヤバさ。アイドルの悪役好きを自称している私ですらさすがにこのシーンは、あまりのサイコっぷりに見ている自分の目と耳をちぎりたくなりました。 風間俊介という俳優の魅力とは「ギャップ」だと私は考えています。芸能界屈指の飛行機、ディズニー好きとして高い好感度を誇る風間俊介さんですが、アイドル界において彼以上に「犯罪者役」を演じている人間はいないでしょう。本人曰く「前科27犯」の圧倒的再犯率を誇り、たびたび世間を恐怖のドン底に叩き落としています。 冒頭でも述べましたが、好きなものをキラキラとした目で語る「光の風間俊介」が濃くなればなるほどに、悪役の顔で見せる「闇の風間俊介」が色濃くクッキリと浮かび上がってくるのです。最新作の映画『先生の白い嘘』でも、キャラクター紹介をしようとすれば「全文字コンプライアンス違反」と言わんばかりの衝撃的な役を演じているので、精神が健康な方はぜひその目で目撃していただきたい。 髙橋優斗(ポイズンドーター・ホーリーマザー) https://www.youtube.com/watch?v=VFo059gIJQ8 黒田正幸。幼い頃に主人公・幸奈(清原果耶)が住むアパートの上の階に住んでおり、まるで姉弟のような関係を築いていた。気の弱い自己主張に乏しい少年だったのだが、大人になり幸奈と再会した直後に無差別殺傷事件を起こしてしまう。 当時、髙橋優斗には演技経験はほとんど無かったのだが、その「何色にも染まってない純粋さ」が逆に恐ろしく、黒田正幸という人間の心の闇を「そのまま」表現していたのです。 事件直後のいっさい瞳に光の入っていない、なにを考えているか分からない顔からの、幸奈のことを弁護士から訊かれた時の狂気に満ちた顔への「表情の変化」は鳥肌が立つほど素晴らしく、なぜ正幸がこんな事件を起こしてしまったのか、いったい誰が悪いのか、物語の持つ複雑性をより濃くしていました。 特にラストの「その女、会ったら言っといて。死ねって。な、な、な」というセリフはアイドルサイコパス史の歴史に残る衝撃的なシーンでした。 西野七瀬(あなたの番です) https://www.youtube.com/watch?v=irpCvb4vOgQ 黒島沙和。高層マンションで起こった謎の連続殺人事件。そのほぼ全ての犯行を行っていた。幼き頃から殺人衝動を抑えきれず、理由もなく数々の人間を葬り去ってきた正真正銘のサイコパス。 最後まで「誰が犯人か」が一番のポイントになる作品において「最も意外な人物が犯人」というのは王道ですが、一歩間違えればそれまでの全てを壊しかねない危険性もあります。 当時のインタビューではドラマ撮影前に自身が黒幕であることを明かされていたらしく、その上で表と裏の顔の両面を演じ分け、視聴者にギリギリまで確信を持たせない絶妙な役作りは「見事」という他ありませんでした。 今では女優としてなんの違和感もなく多くの作品に出演している西野七瀬を作ったのはこの作品からと言ってもいいでしょう。私も仮に誰かに殺されるのであれば、断然黒島ちゃんに殺されたい。 (注:撮影時点では、すでにグループを卒業しています。) ジェシー(新空港占拠) https://www.youtube.com/watch?v=PgqiC7fB0CY 新見大河。空港を占拠するテロリスト集団「獣」の一人・鼠にして、己の復讐のためだけに暴走する危険因子。 SixTONESの中でも、いやアイドル界においても屈指の陽キャぶりを見せつけているジェシーとのギャップはあまりにも激しく、 「生温いな…解放しないでその場で殺せばいい…それこそが本当の裁きだ」 「それだけじゃ意味がない…この国を牛耳ってる奴等を…まとめてぶっ殺す…本当の裁きだ…」 「世間に褒められたいのか?俺はけだものになる…この世界に血の雨を降らせてやる…」 など、悪役参考書の序盤に載っているであろう狂気のセリフをなんの躊躇もなく連発し、私に衝撃と興奮を与えました。ぜひ、SixTONESの楽曲『PARTY PEOPLE』と交互に見ていただきたい。 川栄李奈(デスノート Light up the NEW world) https://www.youtube.com/watch?v=xtXsv90MdGs 青井さくら。どこにでもいる普通の女子高生。名前を書かれた人間が死亡する「デスノート」を拾い、渋谷のスクランブル交差点で無差別殺人を行う。 寿命を半分にする代わりに見た人間の名前を知ることができる「死神の目」もなんの躊躇もなく契約しているなど完全に「自分の快楽」のためだけにノートを使う人間です。 夜神月ら稀代の天才同士が頭脳戦を繰り広げる世界において、「ただの女子」というのは、ある意味で完全な異物。無邪気な笑顔で通りすがりの名前をノートに書き込む姿は恐怖という他ありませんでした。この映画で一番のインパクトを残したと言っても過言ではないでしょう。 当時のインタビューでも「普通の女の子がデスノートを拾って、好奇心で名前を書いて殺しちゃう感じと言われたので、役を作り込むようなことはせず、デスノートを手にした時のわくわく感をそのままお芝居にしました」と語っていたように川栄李奈の凄さは自然さだと私は思っています。作り込むようなことはせず、と簡単に言ってもそれを実際にできる役者は多くはありません。 普通の役であればあるほど、逆にどうしても「演じている」感が出てしまうものです。しかし、川栄李奈はそれを当たり前のようにやってのける。この作品でも「もしバカな子供がデスノートを拾ったら?」を体現する完璧な演技を見せていました。 (注:撮影時点では、すでにグループを卒業しています。) 森田剛(ヒメアノ~ル) https://www.youtube.com/watch?v=iRXBIwm8dKY 森田正一。主人公・岡田(濱田岳)の同級生で、岡田の彼女であるユカ(佐津川愛美)に執着し、ストーカー行為を繰り返すようになる。暴行、放火、銃撃、メッタ刺し、ひき逃げ。自らの存在を誇示するかのようにあらゆる犯罪に手を染める殺人鬼。 『ランチの女王』『前科者』『インフォーマ』など、ただのチンピラから、陰のある元受刑者、得体の知れない殺し屋まで幅広いタイプの悪役を演じてきた森田剛ですが、『ヒメアノ~ル』の森田は異質中の異質。 口調こそ穏やかですが、人間があるべき心のブレーキが完全に壊れており、森田剛の演技によって森田正一の異常な行動を「日常」として溶け込ませてしまいます。この映画を見たあと私は三日三晩眠れなくなり、色んな意味で俺をどこかに連れて行ってくれ…Take me, take me higherしてくれ…とつぶやいてしまいました。 稲垣吾郎(十三人の刺客) https://www.youtube.com/watch?v=LGEgOpv02is 明石藩主松平斉昭。江戸時代末期の将軍の弟。己の権力を傘に暴虐非道の限りを尽くす最悪の男。 たまたま目に入った家臣の妻を襲う、その家臣を「山猿の骨は硬いのぉ」などと言いながら妻の前で切り刻む、など絶対に地上波では放送できない描写を表情ひとつ変えずに行うその精神性。いざ、自分が殺されそうになると 「怖い…死ぬのが怖い…」 と地面をのたうち回り逃げ惑う。悪としての美学などいっさいない、正真正銘の畜生。世の中にあるゲロというゲロを煮詰めてできたゲロの原液。「吾郎ちゃん」と呼ばれ、国民的スターとしての顔はそこには1ミリもありません。彼の持つ上品さが逆に斉昭のおぞましさを増幅させていました。こんなやつ1秒たりとも守りたくない逆・らいおんハート。思い出すだけで震えが止まりません。 木村拓哉(古畑任三郎) https://www.youtube.com/watch?v=7KXKX2WvRc8 林功夫。「ある理由」で遊園地の観覧車に爆弾を仕掛ける電子工学部研究助手。 若く才能があるがゆえに自分以外の大人を舐めきった気だるげな態度を取り、己の能力を過信し疑わないその傲慢さ、そんな「ダサい若者」を、当時の若者の代表格だった圧倒的なカッコよさを持つ木村拓哉が演じる。そのミスマッチが完璧に「フリ」になっている。 「時計台が見えなくなったから観覧車を爆破しようとした」という屈指の動機のしょうもなさに加え、作中で古畑が唯一「手を出した犯人」として、古畑ファンの間でもいまだ「神回」として語り草になっています。 中居正広(模倣犯) 模倣犯 : 作品情報 - 映画.com 網川浩一(ピース)。自分が行う殺人を「舞台」、被害者は自分が作り出した舞台の「女優」と称し、自分の頭脳で他人の人生を手のひらで転がせると思っている狂気の男。 そこにいるのにまるで「温度」を感じないその「得体の知れなさ」最後の最後まで本心が見えず、映画を見終わったあとの空虚さは他の作品では味わうことのできない中毒性がありました。ラストの「首爆発CG」は邦画史に残る伝説のワンシーンとして記憶に残り続けています。 そんなピースのキャラクターは中居くんの持つ良い意味での「掴めなさ」と完璧にマッチしていました。特に、他人を見るときの「瞳」。バラエティ番組などで中居くんが「ネタ」として氷のような冷たい目で共演者などを見るくだりがありますが、それが「演技」として活かされた時、こんなにも恐怖を感じるのかと、失禁するほど震え上がりました。 世間的に役者のイメージはあまりない中居くんですが、この『模倣犯』や『私は貝になりたい』などでの怪演を見るたびに、もっと「役者・中居正広」を味わわせてくれ…と願わずにはいられません。 さて、私が考える「良いサイコパス役の条件」に「3ない」という要素があります。 容赦ない…いかに人を人と思わないか、残虐なことをなんでもないような顔でできるか、時には自分すら顧みず目的のために行動できるか。ここで重要なのは「しでかしたことの大きさ」ではなく、やったことに対しての「罪の意識のなさ」。嘘も盗みも裏切りも殺しも「呼吸」と同義であれば最高です。 語らない…サイコパスに一番大切なのは「潔さ」。なぜこうなってしまった、なぜこんなことを、とか動機マジでどうでもいい。そのバックボーンがカラッポであればあるほどたぎります。 わからない…物語の最後の最後までその人物のことが一切わからないことこそサイコパスの真骨頂。「一見優しそう」とかギャップがあればなお良し。そもそもサイコパスのことをわたしたちが理解しようなどと考えてはいけません。サイコパスの言動に対して「なぜ」と疑問を持つのはやめましょう。 この「3ない」の要素ですが、「アイドル」という職業とまるで「真逆」なことにお気づきでしょうか。他人が見せたいものを見せ、希望を与える。誰かにとっての光。 だからこそ、アイドルという光が輝けば輝くほど、悪役、サイコパス役という闇はより深くなる。私はそのギャップに狂わされ、興奮するのです。 その魅力、魔力にあなたも触れてみてはいかがでしょうか。

アニメ『キン肉マン』シリーズの歴代主題歌を総まとめ!

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「キン肉マンの新旧アニメ主題歌を一挙公開!」。保育園のころからキン肉マンが大好きで、コミックを買うだけではなく、キン肉マン消しゴムも集めていたという福井俊保さんが書かれたこの記事では、キン肉マンのアニメ主題歌への偏愛を語っていただきました! キン肉マンは、週刊少年ジャンプで1979年から1987年まで連載されていた漫画であり、1983年に『キン肉マン』、1991年には『キン肉マン キン肉星王位争奪編』のアニメが放送されました。 その後、2002年にはキン肉マンの息子である『キン肉マンII世』、2024年には『完璧超人始祖シリーズ』のアニメも放送されました。 アニメの主題歌も絶大な人気を集めていたため、「子どものころに『キン肉マン Go Fight!』などの主題歌を歌った」といった人も多いのではないでしょうか。 そこでこの記事では、キン肉マンシリーズののオープニング(OP)主題歌とエンディング(ED)主題歌を総まとめ。各曲の魅力についても徹底解説してきます。 40年以上愛される名作!キン肉マンとはどんな内容? https://youtu.be/ItKW1z4GFqk?si=lSwIduZuEDtd-CdD 出典:Youtube『週プレChannel【集英社 週刊プレイボーイ公式】』 キン肉マンは、ゆでたまご氏による日本の漫画作品、およびそれを原作としたアニメ作品です。1979年から1987年まで「週刊少年ジャンプ」で連載され、その後もシリーズが続いています。 物語は、ドジでマヌケな超人「キン肉マン」ことキン肉スグルが、地球を侵略しようとするさまざまな敵と戦い、成長していく様を描いています。初期はギャグ要素が強く、キン肉マンのコミカルな行動や奇想天外な技の数々が読者の心を惹きつけました。 しかし、物語が進むにつれてシリアスな展開が増え、友情や努力、勝利といったテーマが色濃く描かれるようになっていくのです。 また、個性豊かな超人たちも魅力の一つ。「正義超人」「悪魔超人」「完璧超人」など、さまざまな勢力の超人が登場し、キン肉マンと熱い戦いを繰り広げます。ラーメンマン、テリーマン、ロビンマスクなど、誰もが知っているであろう人気キャラクターも数多く誕生しました。 キン肉マンは、少年漫画の王道ともいえる作品です。「バトル」「友情」「ギャグ」「感動」が詰まった本作は、世代を超えて今も愛され続けています。 キン肉マンⅡ世ではキン肉マンの息子が主人公に! キン肉マンⅡ世は、ゆでたまご氏の原作による漫画作品、およびそれを原作としたアニメ作品です。前作「キン肉マン」の主人公キン肉スグルの息子、キン肉万太郎を主人公に、新たな世代の超人の活躍を描いています。 舞台は前作から数十年後の世界。平和になった地球で、キン肉万太郎は軟弱なダメ超人として育ちます。しかし、邪悪な超人組織「d.M.p」の出現により、悪行超人との戦いに挑むことになりました。 前作同様、個性豊かな超人たちが登場し、万太郎と共に戦います。ケビンマスク、セイウチン、ジェイドなど、次世代の人気キャラクターも誕生。また、前作の超人たちも登場し、新旧キャラクターの共演も見どころの一つとなっています。 キン肉マンⅡ世は、前作の要素を受け継ぎつつ、時代に合わせて進化した作品です。親子の絆、友情、そして自己犠牲といったテーマが描かれ、前作とは異なる魅力を放っています。 キン肉マンの歴代オープニング・エンディング主題歌一覧 キン肉マンでは9つのオープニングテーマとエンディングテーマがあります。ここではそれぞれの特徴について解説します。 1. キン肉マン Go Fight!/串田アキラ https://youtu.be/x4scqkonxEw?si=2ODcGbyRqRG7M-xz 出典:Youtube『TAB Channel / タブ【Toei Animation Beyond】』 アニメ第1期の前半(第1話~第65話)を彩ったオープニングテーマ。歌っているのはアニソン界の大御所、串田アキラ氏。イントロから「Go! Go! Muscle!」の掛け声と、闘志を掻き立てるような力強いメロディが炸裂し、キン肉マンの活躍を予感させます。 「キン肉マン旋風」と並ぶキン肉マンの代名詞といえる楽曲で、多くのファンに愛されています。 歌詞は、正義超人の使命や友情の大切さを歌い上げており、作品の熱い戦いを盛り上げます。 「心に愛がなければスーパーヒーローじゃないのさ」というフレーズは、単なる力自慢ではない、キン肉マンのヒーローとしての在り方を示す、作品全体のテーマを象徴するものとして、多くの人の心に響いています。 2. 肉・2×9・Rock'n Roll/串田アキラ https://youtu.be/13JOdELnYAA?si=Uz5S5s0Scyc2Dl3- 出典:Youtube『TAB Channel / タブ【Toei Animation Beyond】』 同じく串田アキラ氏が歌うエンディングテーマ。オープニングとは打って変わってコミカルな曲調で、ロックンロールのリズムに合わせてキン肉マンが踊ります。 「屁のつっぱりはいらんですよ」という意味のわからないフレーズも入っており、一度聴いたら忘れられないユニークさが最大の魅力です。実際に「言っている意味はよくわからんが…」という突っ込みが入っています。 作品のコミカルな一面を前面に出した、楽しい楽曲に仕上がっていると言えるでしょう。 また、エンディング映像では、ミート君や他の正義超人もいっしょに踊っており、本編のバトルシーンとはまた違ったキン肉マンが見られるのです。 この曲のコミカルさは、作品の魅力の一つである「笑い」を象徴するものであり、後のシリーズにも受け継がれていく要素となっています。 3. 炎のキン肉マン/串田アキラ アニメ第1期後半(第66話~第124話)のオープニングテーマ。串田アキラ氏のパワフルな歌声はそのままに、よりハードロック色が強くなっています。 炎のように燃え上がるキン肉マンの闘志を表現した歌詞と、スピード感のあるメロディが、視聴者の興奮を盛り上げました。 とくに、サビの「俺は炎のキン肉マン」というフレーズは、キン肉マンの不屈の闘志を象徴する力強いメッセージとなっており、視聴者に勇気を与えてくれます。 また、キン肉マンはピンチからの逆転勝利が多いですが、歌詞にも「(ATACK!)ラスト5秒の (FIRE!)逆転ファイター」という一節があります。物語が進むにつれて、戦いがより激しさを増していくことも暗示しているように感じられる歌詞です。 4. キン肉マンボ/神谷明 キン肉マン役の神谷明氏が歌うエンディングテーマ(第66話~第96話、第107話~第124話)。陽気なマンボのリズムに乗せて、作品に登場するキャラクターやプロレスの技をコミカルに紹介しています。 エンディング映像では、キン肉マンや仲間たちがマンボを踊る姿が描かれており、見ているだけで楽しくなります。この曲は、子どもたちにも親しみやすい曲調と歌詞で、当時、多くの子どもたちが口ずさんでいました。 神谷氏は声優としてだけでなく、歌手としても活躍しており、その歌唱力は折り紙付きです。この曲は、神谷氏のエンターテイナーとしての才能が発揮された、楽しいエンディングテーマとなっています。 5. キン肉マン音頭/神谷明、松島みのり キン肉マン役の神谷明氏とミートくん役の松島みのり氏が歌うエンディングテーマ(第97話~第106話)。盆踊りをイメージした夏らしい雰囲気の曲調で、作品の世界観を和テイストで表現しつつ、二人の掛け合いが楽しい一曲です。 エンディング映像では、浴衣姿のキン肉マンや仲間たちが、盆踊りを踊る姿が描かれています。この曲は、シリーズ主題歌の中でも、とくに異色な楽曲といえるでしょう。 コミカルな一面と、日本の伝統的な音楽である「音頭」を組み合わせることで、独特の魅力を生み出しています。 6. キン肉マン旋風(センセーション)/串田アキラ アニメ第1期終盤(第125話~最終話)のオープニングテーマ。再び串田アキラ氏が担当し、疾走感溢れるメロディと、キン肉マンの成長を思わせる歌詞が特徴です。 新たなステージへと向かうキン肉マンの力強さが表現されており、最終決戦に向けて盛り上がりを加速させる楽曲となっています。 この曲は、第1期の集大成となるオープニングテーマとして、キン肉マンの成長と、未来への希望を力強く歌い上げています。最終決戦に向けて闘志を最大限に高める、熱い楽曲といえるでしょう。 7. キン肉マン倶楽部/神谷明 神谷明氏が歌うエンディングテーマ(第125話~最終話)。友情をテーマにした心温まるバラード調の楽曲です。仲間との絆を大切にするキン肉マンらしいメッセージが込められており、アニメ第1期の締めくくりにふさわしい感動的なエンディングとなっています。 エンディング映像では、キン肉マンと仲間たちが楽しくローラースケートをしているシーンがあり、激しい戦いの後の平和を描いています。また、歌詞は子どもたちへのメッセージです。 当時、この歌を聞いた子どもたちは、未来に希望を持って頑張ろうと思っていました。第1期の最終回にふさわしい、余韻を残すエンディングテーマとなっています。 8. ズダダン!キン肉マン/鈴木けんじ 「キン肉星王位争奪編」のオープニングテーマ。鈴木けんじ氏による力強い歌声が、新たな戦いの幕開けを告げるような楽曲です。王位争奪戦という壮大なスケールを感じさせる、重厚なサウンドが特徴です。 歌詞には、キン肉マンの決意や覚悟が力強く表現されており、戦いに挑む彼の姿を応援したくなるような楽曲に仕上がっています。 鈴木けんじ氏の力強い歌声は、キン肉マンの力強さと、王位争奪戦の緊張感を表現するのにぴったり。この曲は、「キン肉星王位争奪編」という章の始まりにふさわしい、壮大なオープニングテーマとなっています。 9. 月火水木・キン肉マン/ケント・デリカット、松田多香子 「キン肉星王位争奪編」のエンディングテーマ。ケント・デリカット氏と松田多香子氏によるデュエットソングで、コミカルな歌詞とキャッチーなメロディが印象的です。月曜日から木曜日まで、毎日キン肉マンを応援したくなるような楽しい楽曲です。 エンディング映像では、月火水木という歌詞に合わせてキン肉マンが踊っています。続いて金土日は休みたいという歌詞。週休3日制なのがいかにも彼らしい。 この曲は、「キン肉星王位争奪編」のシリアスな展開とは対照的に、明るく楽しいエンディングテーマとなっています。作品のコミカルな一面を強調することで、視聴者に癒しを与え、次のエピソードへの期待感を持たせるような楽曲に仕上がっています。 キン肉マンⅡ世の歴代オープニング・エンディング主題歌一覧 キン肉マンII世には、8つのオープニングテーマとエンディングテーマがあります。ここではそれぞれの特徴について解説します。 1. HUSTLE MUSCLE/河野陽吾 キン肉マンII世の初代オープニングテーマ(第1話~第51話)。河野陽吾氏の力強い歌声が、新たな世代の主人公、キン肉万太郎の活躍を予感させます。「Go! Go! Fight!!」のフレーズは初代OPを彷彿とさせつつ、より現代的なロックサウンドに仕上がっています。 歌詞には、万太郎の成長と、正義超人としての葛藤、そして友情の大切さが。初代キン肉マンの意志を継ぎ、次の時代を担う万太郎の熱い戦いを予感させるオープニングテーマです。 万太郎の若さと情熱、そして、懐かしい初代キン肉マンの映像もあり、視聴者の心を掴む楽曲となっています。 2. 愛のマッスル/ザ・パーマネンツ 初代エンディングテーマ(第1話~第26話)。ザ・パーマネンツが歌う、明るく爽やかなロックンロールナンバーです。愛と友情をテーマにした歌詞は、万太郎の真っすぐな性格を表現しており、聴いていると元気をもらえるような楽曲です。 エンディング映像では、万太郎が二階堂凛子を追いかけて振られるシーンがあり、父親であるキン肉スグルとの共通点が伺え、映像だけでも楽しむことができます。 この曲は、作品の明るく楽しい雰囲気を象徴するエンディングテーマといえるでしょう。 3. 恋のMy chop!!/横須賀ゆめな 2代目エンディングテーマ(第27話~第51話)。横須賀ゆめな氏が歌う、ポップでキュートな楽曲です。恋する乙女心を歌った歌詞は、万太郎の恋の行方も気になる本作のストーリーにぴったりです。 エンディング映像は、万太郎とヒロイン・凛子のラブコメディ風の演出で、二人の関係性が気になるファンを楽しませました。凛子への淡い恋心を抱く万太郎の心情を、可愛らしい歌声と映像で表現しています。 この曲は、万太郎の青春物語としての側面を強調したエンディングテーマといえるでしょう。キン肉マンII世は、バトルだけでなく、恋愛や友情など、青春の要素も魅力の一つ。この曲は、そんな本作の魅力を表現する楽曲となっています。 4. believe/The NaB's キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLEのオープニングテーマ。The NaB'sが歌う、疾走感溢れるロックナンバーです。新たな敵との戦いに挑む万太郎の決意を表現した歌詞と、力強いサウンドが、視聴者の興奮を盛り上げます。 ULTIMATE MUSCLEシリーズは、熱い戦いと友情、そして成長の物語を描きながら、新旧の超人たちが織りなす新たな伝説を紡ぎ出していきます。 また、歌詞全体を通して、未来への希望や夢を追い続けることの大切さが強調されています。主人公の成長や挑戦を応援するメッセージになっており、視聴者に勇気や希望を与えてくれます。 5. 赤色ダンスホール/sui https://youtu.be/3Nn9xWoAC3A?si=prnqVZQsCiQX6xwC 出典:Youtube『taxk Promise』 『キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLE』のエンディングテーマ。suiが歌う、ミステリアスな雰囲気の楽曲です。この曲は、他の主題歌とは一線を画す、独特な雰囲気を持っています。 作品の世界観や熱い戦いの雰囲気を反映した歌詞が特徴的です。エンディング映像を見ると、友情や努力、成長といったアニメの主要テーマとリンクしており、聴くものの心に響きます。 6. Trust Yourself/高取ヒデアキ https://youtube.com/shorts/7ExO5nxWplY?si=MH1JzK9bnOAKWBMc 出典:Youtube『高取ヒデアキ』 『キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLE2』のオープニングテーマ。高取ヒデアキ氏が歌う、力強いメッセージソングです。自らの力を信じ、運命に立ち向かう万太郎の姿を応援する歌詞は、視聴者に勇気を与えてくれます。 さらに、高取ヒデアキ氏のハイトーンボイスが、万太郎の闘志とマッチしており、激しい戦いを連想させます。また、歌詞には、「自分の力を信じろ」というメッセージが込められており、逆境に立ち向かう万太郎の姿と重なることも。 この楽曲は、アニメの世界観を反映しつつ、聴く人に勇気と自信を与えるような力強いメッセージを込めた歌詞だといえます。高取ヒデアキの特徴的な歌唱力と相まって、印象的なオープニングテーマとなっています。 7. 誓ノ月/Kagrra, https://youtu.be/3rJBZZszZ3A?si=jcCuZqZJCSv2gf_b 出典:Youtube『MiyakoKagrraFanTR』 Kagrra,が歌う『キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLE2』のエンディングテーマ。激しい曲調の中に、どこか哀愁漂うメロディが組み込まれており、戦いを振り返るエンディング映像ともマッチしています。 「誓ノ月」は、『キン肉マンII世 ULTIMATE MUSCLE2』の世界観と見事に融合した楽曲です。力強い歌声とメロディ、そしてアニメのテーマと共鳴する歌詞は、これからの戦いを期待されるものになっています。 8. MUSCLE BEAT/角田信朗 『劇場用アニメーション キン肉マンII世』の主題歌です。角田信朗氏が歌う、熱いファイトソングです。映画の壮大なスケールに負けない、パワフルな歌声と、本作らしい熱いメッセージが込められた歌詞が印象的です。 劇場版のストーリーを盛り上げる力強い楽曲で、角田信朗氏のパワフルな歌声は、劇場版の迫力満点のバトルシーンにぴったり。 歌詞には「諦めない心」「友情の大切さ」など、シリーズを通して描かれてきたテーマが込められています。映画の世界観を最大限に盛り上げる、熱い主題歌となっています。 キン肉マン完璧超人始祖編のOP・ED主題歌一覧 2024年7月より放送開始した完璧超人始祖編。往年のファンも新規ファンも惹きつける本作を音楽面で盛り上げる主題歌を紹介します。 1.LOVE & JUSTICE/高梨康治×FLOW https://youtu.be/3ipeXNG8wEk?si=4qbCQUhTXH62AvnN 出典:Youtube『キン肉マン 公式チャンネル』 『NARUTO -ナルト-』シリーズなど、数々のアニメ音楽を手掛けてきた高梨康治氏と、人気ロックバンドFLOWによるコラボレーションが実現。 高梨氏による重厚なサウンドと、FLOWの力強いボーカルが融合した、まさにキン肉マンにふさわしい熱く激しい楽曲に仕上がっています。 正義超人たちの熱い闘いを予感させる、スピード感溢れるメロディと、FLOWのボーカルKEIGOによる情熱的な歌声が、視聴者の心を掴みます。 2.「超人」キン肉マン/宮野真守 https://youtu.be/lS3ndSYP3Bs?si=3OvWOLJy8hymi4gz 出典:Youtube『キン肉マン 公式チャンネル』 主人公・キン肉マン役の声優、宮野真守氏が歌うエンディングテーマ。ラップ調のメロディに乗せて、キン肉マンの心情を歌い上げています。 これまで数々のアニメキャラクターソングを歌いこなしてきた宮野氏ですが、今回は「超人」という、まさに本作のための楽曲を熱唱。 エンディングテーマでありながら、作品の特徴を表している歌詞にも注目です。かっこいいラップ調の中に「屁のつっぱりはいらんですよ」というお決まりのセリフも含まれており、初期のキン肉マンらしさを表しています。 まとめ https://youtu.be/whOWsuBAjBE?si=MB31WmQz61JpaXry 出典:Youtube『キン肉マン 公式チャンネル』 この記事では、世代を超えて愛されるキン肉マンシリーズの歴代主題歌を振り返りました。 「キン肉マン Go Fight!」や「炎のキン肉マン」など、作品の代名詞とも言える串田アキラ氏の楽曲は、力強い歌声が作品の熱い戦いを盛り上げ、多くのファンに愛されています。 一方、「キン肉マンボ」や「キン肉マン音頭」など、神谷明氏によるコミカルな楽曲は、キン肉マンのユニークな世界観を表現していました。 また、キン肉マンII世では、「HUSTLE MUSCLE」や「believe」など、新たな世代の活躍を象徴する力強い楽曲が登場。「愛のマッスル」や「恋のMy chop!!」など、万太郎の青春物語を彩るポップな楽曲も人気を集めました。 それぞれの主題歌は、作品の世界観を表現し、ストーリーを盛り上げるだけでなく、時代を超えて愛される名曲として多くのファンの記憶に残っているのです。 2024年7月から放送された完璧超人始祖編は、2025年1月から第2期の放送も決まっています。キン肉マンらしさもありつつ、新しさも感じられる名曲が生まれることに期待が高まりますね!

SFマニアの私が解説する世界的ヒット作「三体」の魅力

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「ドラマに小説に大盛りあがりの中国SF『三体』の魅力を語る!」。冬木糸一さんが書かれたこの記事では、中国SF『三体』への偏愛を語っていただきました! こんにちは、冬木糸一です。 今回は日本を含む世界中でベストセラーとなり累計で3000万部以上を売り上げた歴史的な中国SF『三体』を、今日本で読むことができる小説と二本のドラマを中心に紹介させてもらおうかと思う。というのも、『三体』は先日三部作のすべてが文庫化され、別作者によるスピンオフ長篇『三体X』や事実上の前日譚『三体0』も翻訳済み。さらにはNetflixで第一部のドラマ化、中国本国で作られたドラマ版も各種配信サイトで視聴できて──と、小説から映像媒体まで入口が揃ってきたからだ。 『三体』とは何なのか? なぜ世界中で盛り上がっているのか? 最初に『三体』の盛り上がりについて触れておくと、これが世界的に人気を博したのは、世界的に有名なSF賞であるヒューゴー賞を、2015年にアジア人作家として初めて受賞したのがきっかけとなっている。その受賞後、オバマ元大統領、FacebookCEOのマーク・ザッカーバーグなどの著名人も相次いで推薦。もともと中国国内では盛り上がっていた作品だが、その人気が世界中に広がっていったのだ。 日本でもこの時期(2015年頃)以降に「三体っていうのがスゴいらしい」「いつ日本語に翻訳されるんだ!」「原書・英語で読んだけどすごかった!」と評判が伝わってきたものだ。そこから日本で第一部が翻訳で読めるようになったのが2019年のこと。その後あれよあれよという間に日本でも累計80万部を突破し、今年はついにドラマも日本で公開され──と、いまだに破竹の勢いでその人気が広まっているのだ。こうした人気には中国が国策としてSFを推進していることも関係している。なかでも成都は「SF都市」としてPRされ、昨年は中国で初の世界SF大会(世界SF協会が主催し、戦術のヒューゴー賞の受賞作を参加者らの投票で決定する)もここで開催された。 入口は多く、そのどれもに良さがあるので、『三体』未体験、もしくは観ていない・読んでいないものがある人は、本記事が手をつけるきっかけになったら幸いである。 原作《三体》三部作 というわけで、最初にすべての基本となる原作小説の紹介から入ろう。現在三部作すべてが文庫化されており、第一部は一冊、第二部『黒暗森林』と第三部『死神永生』がともに上下巻となっている。これまで内容の話を一切せずに持ち上げてきたが、本作の物語は基本的にはシンプルな”ファーストコンタクト物”であるといえる。 ファーストコンタクト物とは人類が地球外文明・生物とはじめて接触した時の驚きやコミュニケーション、時には戦争に至るまでを描き出すSF内のサブジャンルだ。《三体》三部作の中で、人類ははじめて地球外の生命体と遭遇し、種の存続を賭けて戦うことになる。本作が世界中で評価されたのは「それだけのことをどこまでもスケールをデカく、しかも緻密に突き詰めて描き出したから」という点にあるだろう。 さらには、中国発の作品らしく中国の文化に根ざした──本作は文革の過程で科学者の父を殺され、人類に絶望した女性が最初の主人公となる──第一部から、次第に地球人類全体の物語へと移行し(第二部)、最終的にはこの宇宙に住まう生命全体の行く末を描き出す(第三部)ような、ローカルな文化描写とグローバルを超えた宇宙論的な視点を併せ持っている点も、世界中で大ヒットしている要因といえる。 その性質上物語は第一部〜第三部まででテイストが異なっていて、筆者(冬木)は四回ほど読書会に参加したがみんな好きな部もバラけていた。たとえば第一部はすべてのはじまりを描き出す物語で、なぜ地球から遠く離れた地に住んでいた三体星人が地球を発見したのか、またなぜ地球人類を征服するためにやってくることになったのか、その顛末が中国での文化大革命と合わせて描き出されていく。1970年代から2000年代の比較的現代に近い時代を描いていて、文学的な魅力が光るパートだ。 続く第二部は、地球に向かってくる三体星人をどうにかして打ち倒さねばならぬ──となった地球人類が、三体星人よりもはるかに劣る科学技術で奮闘する「頭脳バトルパート」にあたる。この部数がエンタメ的な濃度は一番高い。というのも、ある事情から地球の通信はすべて三体星人に傍受されていて、声に出したり通信を行うとすべてバレることから、信頼できるのは「天才の頭の中だけ」という状態から頭脳戦がはじまるのだ。三体星人に対抗するため作られた惑星防衛理事会は「面壁計画」を立ち上げ、天才的な四人の人物を選出し、彼らに人類のリソースを集約することになる。 面壁者と呼ばれる選ばれし四人は、そのリソースを真意を説明せずともあらゆることに使用することができる。一見不可解なことや馬鹿げたことにリソースを費やしているように見えても、それはすべて人類もろとも三体星人を騙すための”ブラフ”なのかもしれないのだ。 それに続く第三部はこれまでの二作と比べるともっともSF度の高い作品だ。物語はまず第二部で進行していた事態の裏側で起こっていたことから始まり、最終的には惑星規模を超えて全宇宙における生命の生存戦略にまで話のスケールが及ぶ。 著者の劉慈欣によれば、最初の二巻はSFファン以外の一般読者に広く受け入れてもらうために、現代や近未来を舞台にし、物語の現実感を高めた。しかし第三部に至っては、物語ははるかな未来や本格的に宇宙を舞台にした物語となり、ハードコアなSFファンを自認する劉慈欣自身が心地よく感じる、”純粋な”SF小説を書くようにしたのだという。そうした振り切った作品として書かれた第三部はしかし中国本国でも大人気となり、本邦での三部の評判も(普段あまりSFを読まない読者にも)良い。 読み始めた読者には、ぜひ第三部のラスト──壮大な物語の果てに、寂寥感の残る情景が訪れる──にたどり着いてもらいたいものだ。 ドラマはどちらから見るべきか? 続いて映像作品の紹介に移ろう。こちらは現在日本国内から視聴できるものとしては、Netflix版とテンセント版の二種類が存在する。それぞれの特徴を書いておくと、Netflix版は主な舞台をイギリスに移して原作を再構成した物語になっていて、話数的にも概ね原作第一部に相当する部分が全八話とコンパクトにまとまっている。 もう一方のテンセント版(現在AmazonPrimeやU-NEXT、FODプレミアム、TELASAなどに有料登録することで視聴可能)は本家本元の中国で作られたドラマだ。中国人中心のキャストで、各話40〜50分の全30話と、たっぷりと尺を使って原作に忠実に映像化を試みているのが特徴である。 Netflix版について 原作の再現度や、「文字はたくさん読む気がしないけれど物語は原作通りのものが堪能したいな〜」というのであればテンセント版を薦めるが、Netflix版にはNetflix版の良さもある。そもそもNetflix版は最初から制作を進めるにあたって大きな制約があったようで、制作者らは「ドラマを英語版として作る」権利を持っており、登場人物はみな英語で話すことを前提として作品を作らなければならなかったのだ。 それで改変して物語がとんちんかんだったら問題だが、本作は原作既読勢からみてもそう違和感のない内容に仕上がっている。違和感なく物語を再構成するため、物語の舞台は中国からイギリス・オックスフォードへと移り、さらに各部にまたがった物語を一貫した(人間関係の)ドラマとしてまとめあげるために、原作で第一部、第二部、第三部で異なるはずの登場人物を序盤から登場させたり──と、さまざまな変更を行っている。 本作のスタッフは大きく話題になったファンタジー大作ドラマの『ゲーム・オブ・スローンズ』と共通していて、彼らが経験豊富で得意な群像劇の魅力を本作で存分に発揮しているといえるだろう。後述するが、テンセント版では原作で重要な意味を成す文化大革命のシーンが大幅にカットされている一方、このNetflix版では冒頭から(文革のシーンを)丹念に描くなど、プロットや登場人物は異なっても作品の核はきちんと引き継いでいる。「もう一つの三体」が楽しめるのは間違いなくNetflix版の美点だ。 登場人物がわっと出てくることもあって序盤のテンポこそ悪いものの、後半の山場である「古筝作戦」(第五話「審判の日」)まで視聴すれば、あとはラストまで一気だろう。 テンセント版について 一方のテンセント版の良さはなんといっても長大な尺を活かした映像表現の豊かさだ。たとえば、原作『三体』の第一部では、VRゲーム「三体」が重要な役割を果たすが、VRというだけあって視覚的にはなんでもあり。たとえば十万桁までの円周率を求めよという始皇帝の無茶振りに答えるため数百万の軍隊を用いて人間計算機を構築するシーンが原作にはあるのだが、こうした壮大なシーンも予算も尺もとってじっくりと描き出している。 他にも原作勢的には、原作でちょい役だった人たちがこのドラマ版では30話と尺たっぷりなせいか描写が盛られていること(史強の部下である徐冰冰など)、原作通り物理学や天文学の専門用語が飛び交うこと──といったあたりは、『三体』の物理学部分の壮大なホラの吹き方が好きな人にはたまらないだろう。役者陣も、中心人物の汪淼を演じる张鲁一をはじめとして、個人的には非常によくマッチしていると感じた。 全30話と長大なドラマで説明がひたすら長い回などもあるのでダレがちだったり、こちらはやはり文化大革命の描写が弱い点、主人公らを明確な悪にしづらい点(先述の「古筝作戦」の描写でそれが露骨に出る)もあり、良い点、悪い点がNetflix版とテンセント版では見事に表裏に分かれているなと感じる。 おわりに 原作やドラマなど、何から『三体』に入るのが正解ということはないので、この記事で興味を持った人は(まだ読んで/観ていないものがある人も)手を出すきっかけになってもらえたら嬉しい。このあとドラマもシーズンが続いていくし、映画化も、スピンオフ作品も出てくるようなので、しばらく『三体』フィーバーは続きそうだ。

人生に必要なことは全部銀英伝に学んだ

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「人生に必要なことは全部銀英伝に学んだ」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、銀河英雄伝説への偏愛を語っていただきました! 『銀河英雄伝説』は現役バリバリのコンテンツ。 田中芳樹先生が執筆された『銀河英雄伝説』(以下、銀英伝)をご存じだろうか。ご存じでない奇特な方のために簡単に概要を説明すると、もともとは1980年代に発表されたスペースオペラ小説で、1980年代から2000年代にかけて、映画やOVAやゲーム、パチンコ等メディア展開された超名作である。 物語の内容は【宇宙を二分する「銀河帝国」と「自由惑星同盟」、そこに割って入ろうとする「フェザーン自治領」の興亡史であり、二人の主人公「常勝の天才」ラインハルト・フォン・ローエングラム(銀河帝国)と「不敗の魔術師」ヤン・ウェンリー(自由惑星同盟)を中心に魅力あふれる多くの登場人物がそれを彩る一大叙事詩】になるだろうか。「銀英伝」に触れたことがなくても「常勝の天才」「不敗の魔術師」という言葉は耳にした方もいるのではないだろうか。 いや、こんな陳腐な概要では「銀英伝」の魅力は一ミリも伝えられていない。とにかく、めちゃくちゃ面白い作品なのである。面白いだけではない。勉強になる。大げさではなく、「人生について」考えさせられるものであり、教科書が教えてくれない「人間とは何か」を教えてくれるテキストであり、見せ場が数多くあるエンタメ作品だ。僕は「銀英伝」から、人生で必要なことのほとんどを学んだと自負している。優れたエンタメ作品に触れると、「銀英伝」と比較することもあった。会社で上司にムカついたときは、夜の従業員用トイレの鏡に向かって「くたばれ皇帝(カイザー)」とつぶやいた。これはヤン艦隊の口ぐせだけどね。 80年代に原作小説、90年代にオリジナルアニメと劇場版が発表されるなどして大ブームを巻き起こした「銀英伝」。ネットを検索すれば原作や旧アニメを愛した猛者たちが熱く語っているのを発見できるけれども、原作や最初のアニメが発表されてから30年以上も経過した作品であることもこれまた事実である。 ところが、なんと数年前(2018年)から原作の再アニメ化『銀河英雄伝説 Die Neue These』がスタート。これが旧アニメに負けず劣らずまた面白いのである。さらに2024年10月からは新作スマホゲーム『銀河英雄伝説 Die Neue Saga(ノイサガ)』がリリース!まだ遊んでいないけれども、きっと名作に違いない。きっと、銀河帝国か自由惑星同盟の提督のひとりとなって、ラインハルトやヤンの麾下で活躍するゲームなのだろう。きっとそうだ。 なんということでしょう。2024年、「銀英伝」が最新のエンタメとしてカムバックしているではありませんか。今こそ、「銀英伝」の素晴らしさを語る絶好のときではないか。というのが長すぎる前置きなのである。 銀英伝との出会いは上下二段組で文字がぎちぎちに詰め込まれたノベルズ版だった。 断言しよう。田中芳樹先生が書かれた「銀英伝」を知らない人は人生において大きな損をしている。なぜなら、人生に必要なことのすべては「銀英伝」から得られるからである。実際、僕は「銀英伝」からすべてを学んだ。「銀英伝」は、学校や教科書が教えてくれない、人間の業や人生の空しさ、浪漫といったものを与えてくれた。 大袈裟ではない。僕は「銀英伝」を夏休みの課題図書にすべき、さらに、「銀英伝」を学校のカリキュラムに入れるべきだと本気で考えている。たとえば、大学では社会に出ると直面する、アホな人間や、人間のアホな行為、アホアホがしょうもない理由で行われることを、あらかじめ「銀英伝」で学んでいなかったら、僕はハラスメントな労働環境(90年代でしたので……)で、心身を壊し、こうして世間様に向かって駄文を垂れ流せなかっただろう。 そんな僕と「銀英伝」との出会いは、小学生時代にさかのぼる。原作小説がトクマノベルズで書き下ろし発表されていた頃だ。第五巻が書店の新刊コーナーに平積みされていて、加藤直之先生の無骨なイラストがたまたま目に留まったのだ。なんか当時好きだったサンライズのロボットものとは違う渋めの絵に導かれてしまったのだ。 手に取ってビックリ。1ページを上下二段に分けてびっしり小さな文字で埋められていたからだ。漢字も多い。小説を読み始めたばかりの頃だったので、世の中にはヤバい本があると仰天したのだった。その日、第一巻を買って帰った。面白くて何日かかけて読破した。 先が気になって両親に頼んで刊行されていた五巻まで買ってもらって一気に読んだ。当時ノベルズは書き下ろしで、半年に一冊のペースで発表されていた。半年ごとに発表される新作が待ちきれなかった。どの巻も見どころがあってわくわくした。第五巻以降の自由惑星同盟がああなってしまうのには衝撃を受けたし、第八巻の「魔術師還らず」のエピソードを読み終えたときには「嘘……」と放心した。「魔術師還らず」は、僕がこれまでの人生で創作物から受けた衝撃の大きさトップ5に入る。 原作は十巻で完結。記憶が正しければ僕が中学2年生の秋。しばらくするとアニメ(OVA)が制作された。これがまた見事に原作の世界観が映像化されている名作であった。ちなみに声優陣がアニメ史上最強に豪華。作中の艦戦シーンでクラシック音楽が流れるのだけれども、銀英伝以降、戦闘シーンにクラシック音楽が流れないと何か物足りない気分になるという副作用が出ている。 ボンクラ小学生にとって銀英伝の何がすごかったのか。 まず、「主人公が二人」というのが斬新だった。それもバディ関係ではなく、対立している勢力のキーパーソンとして、同時にライバルとして主人公が二人いるというのが新鮮でならなかった。大人の小説とは、こんな構成をしているのかと驚いたものだ。 ところが今日まで、銀英伝のように主人公二人が対立し、かつ、お互いをリスペクトしていて、なおかつ魅力的で、そして面白い作品は稀有である。主人公二人が対立している作品は、たとえば「ガンダムSEED」のキラとアスランのように、直接対決、対決を乗り越えたあとに共闘するという展開で、物語を盛り上げようとするけれども、「銀英伝」の二人の主人公、ラインハルトとヤンは直接会って会話をするのは……あれ?もしかしたら中盤の超クライマックス「バーミリオン会戦」終了後の会談の一回のみ、かもしれない。 また、銀河帝国と自由惑星同盟が、会戦で激突するときのスケールの大きさに驚いた。数万隻の艦隊同士が戦い、会戦後は数百万人の犠牲者が出るのだ。銀英伝と同じ位好きな機動戦士ガンダムと比べると、ガンダムがせいぜい地球と月、木星位までが舞台で、艦隊戦が数十隻レベルなので、そのスケールの大きさに度肝を抜かれたのである。 登場人物が異常に多いから面白い。そしておバカさんも多い。 「銀英伝」は登場人物が多い。最近文庫版が発売されてベストセラーになった「百年の孤独」が登場人物の多さで話題になったけれども、「銀英伝」はさらに多い。 「百年の孤独」が同じ名前、似たような名前(アウレリャノ…)が多いのに対し、「銀英伝」は、末端の役に至るまでしっかり異なる名前がつけられている。「登場人物が多い」というと、それだけで「ちょっと……」とアレルギーを感じる人は多いかもしれない。ところが安心。「銀英伝」は、登場人物は多いが原作小説はめちゃくちゃ読みやすいし、アニメ版もキャラクターの多さで話が混乱することも皆無である。 楽しむコツがある。推しのキャラを作るのだ。一人でなくてもいい。何人か推しをつくる。「銀英伝」には多種多様なキャラクターが登場するので推しを見つけることは容易い。そして推しを中心に楽しむこと。それだけでいい。たくさんの登場人物が出てくるが、推し以外は無視でオッケー。いけすかないキャラやむかつくキャラはあっさりと物語から退場していくので気にしないでもまったく問題ない。たとえば、自由惑星同盟のパエッタ中将(ザコ)がどうなったのか気にしなくてよい。僕の体感では名前のあるキャラクターの約3割は記憶に留めなくてもよい。登場人物が多いため、推しを変えて繰り返し楽しめるのが「銀英伝」である。 田中芳樹先生は「ムカつくキャラクター」「イキっているキャラクター」「どうでもいいキャラクター」には、勧善懲悪的に酷い結末を与えているのでそれも見どころ。作中で「無能」と評価されているキャラクターが調子に乗っていると、「酷い結末が待っているのだろうなあ……」と盛り上がってきて、そのとおりのオチになるのでスッキリする。同様に「有能なキャラクター」「実直なキャラクター」「主人公及び主人公を支えるキャラクターたち」には、愛のある描写をしており、中には志半ばで倒れるものもいるけれども、亡くなり方もカッコいい見せ場をつくってくれるのである。 「銀英伝」に登場するキャラクターは、軍人であれ、官僚であれ、高い位にあるエリートである。銀英伝には馬鹿がたくさん登場する。それは、無能な人物であってもやり方によってはある程度立身できることを意味している。僕は、「銀英伝」に登場する無能なキャラクターのような人物が実際に存在すること、ましてや組織の上において(トップではないにせよ)そこそこな地位・立場についているのを見て、「これはいくらなんでもフィクションだろう」とゲラゲラ笑っていた。 しかし、実際に自分が社会人になったとき、無能な人物が高い地位にいて、かつ、傲慢な態度を見せていて、「銀英伝に書かれていることは、本当なんだ」と感動したものだ。無能な人がどういう行動原理から組織で立ち回るのか、あらかじめ銀英伝で学んでいた僕は、心身のダメージを最小限に抑えられたのである。ありがとう「銀英伝」。田中先生。「銀英伝」みたいに無能が全員わりと悲惨な結末を迎えることはなかったけれどね。 タイミングの良いところで発生する〇〇イベント 「銀英伝」は長い。そしてたくさんのキャラクターが登場する。政治劇や宮廷劇が続くと正直ダレる。物語がダレてきたときに、発生するイベントがある。頻度としては初期ノベルズ版で一巻あたり1回か2回。そのイベントとは「会戦」である。 銀河帝国と自由惑星同盟(同盟崩壊後はヤン艦隊)が、大艦隊同士で対峙する会戦が発生する。主な会戦は、戦略的な意義やそこで見られる戦術が異なり、テンションが上がる。特に旧アニメではクラシック音楽が会戦シーンを盛り上げていた。 会戦は、銀河帝国、ラインハルト陣営の圧倒的な戦力と才能あふれる提督たち、それに奇策をもって対抗するヤン艦隊の戦いぶりが見どころになる。はっきりいってヤン・ウェンリーの能力はチートである。質・量ともに圧倒的なラインハルト陣営をことごとく打ち破っていく姿は、今流行りの転生チート系の物語の元祖のようにも思えるくらいだ。「銀英伝」はヤンのチートぶりを楽しむのがいちばん分かりやすい楽しみかたといえる。僕もそうでした。 新・三大銀英伝「推しキャラクター」 ①門閥貴族連合 フレーゲル男爵 物語序盤、銀河帝国の旧勢力門閥貴族連合とラインハルト陣営との間で内戦が勃発するのだけれども、そのとき門閥貴族連合の盟主ブラインシュバイク公(無能/アホ)の甥として登場。生まれながらの貴族で選民思想が強く、そのうえ、自己陶酔が激しく、周りに迷惑をかけまくりのアホ貴族。その味わい深い言動は各自、原作小説かアニメで確認していただきたい。迷惑なアホぶりで門閥貴族連合の壊滅的敗北を招いたうえ、敗勢が決定的になったあとも自らが乗艦する戦艦で相手に一騎打ちを挑もうとし、さらには周囲を巻き込んで道連れにしようとしたところ、愛想をつかした部下たちに射殺されるという田中芳樹先生のアホにはアホの結末を体現した味わい深いキャラクターである。ムカつくけど憎めない面もあるので推し候補にいかがだろうか。 ②シュタインメッツ提督(カール・ロベルト・シュタインメッツ) ラインハルト陣営の幕僚のなかで、もっとも地味な男。物語中、原作やアニメにおいても描写や活躍シーンがほぼないながらも、なぜか主要提督たちと同じ階級(中将、大将、死後元帥)にいた謎の男である。印象的なシーンがまったくないから記憶に残らない。数年おきに到来する「銀英伝」ブームのたびに、「今回はシュタインメッツに注目して物語を追ってみよう」と決意するのだが、いつのまにか登場して去っていく、とにかく地味オブ地味なキャラクター。アニメ版でもキャラデザがモブっぽくて何とも地味。僕はもうシュタインメッツさんを追うのは諦めました。これから「銀英伝」に入ろうとする人にはシュタインメッツの謎を解明してもらいたいものである。 ③アイゼナッハの副官 ラインハルト陣営の提督「沈黙提督」の異名をもつアイゼナッハ(エルンスト・フォン・アイゼナッハ)の副官。アイゼナッハ提督は「沈黙提督」といわれるだけあり、ほとんど話をしないキャラクターである。それゆえ原作小説において台詞はほぼなしという、小説というメディアに挑戦したキャラクターともいえる。そんな沈黙さん、艦隊を指揮するときも無口。ジェスチャーや指を鳴らすなどして指示を出すわけだが、それを解読して艦隊に指示を出す副官さんが優秀すぎて、目を離せなくなる。つか、副官が本体なのでは? と思えてくるから不思議である。沈黙提督という変人の副官に注目してもらいたい。 主人公二人以外で僕が好きなのは、メルカッツ(ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ)やシェーンコップ(ワルター・フォン・シェーンコップ)かな…亡命するキャラクターばかりだ。現実逃避したい願望のあらわれだろうか。余談だが、ウチの奥様の推しキャラクターはハンス・エドアルド・ベルゲングリューン(地味なので調べてみてください)。 「銀英伝」になぜハマったのか、から「銀英伝」の僕なりの楽しみ方についてねちねちと語ってきた。繰り返すが、新訳アニメ『銀河英雄伝説 Die Neue These』が制作されて、スマホゲーム『銀河英雄伝説 Die Neue Saga(ノイサガ)』のサービスがこの10月にはじまった今こそが「銀英伝」に触れる絶好の機会だ。さあ「銀英伝」を楽しもう。

漫画『ゴールデンカムイ』の杉元とアシリパの関係が好きすぎて1万キロの旅をする

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「金塊争奪戦の相棒!漫画『ゴールデンカムイ』の杉元とアシリパの関係性が好きすぎる」。雨宮紫苑さんが書かれたこの記事では、『ゴールデンカムイ』の杉元とアシリパの関係性への偏愛を語っていただきました! 2019年、秋風が吹き始めたころ。 わたしは「地の果て」と呼ばれた網走監獄の前に立っていた。 神奈川県出身、ドイツ在住。そんなわたしが一時帰国中、なぜわざわざ北海道、しかもかなり端っこにある博物館網走監獄まで足を運んだのか。 それは、漫画『ゴールデンカムイ』にはまっていたからですよ! まさか人生初の聖地巡礼が監獄になるとはね! 甲状腺の病気になり、人生で初めて手術することになったときのこと。暇つぶしに手に取った漫画『ゴールデンカムイ』にドハマりし、時間を忘れて読みふけった。そして一時帰国した際、迷わず北海道に向かったのだ。 杉元とアシリパのコンビが好きすぎる……ッ!! というわけで今回は、時系列順に「杉元とアシリパの関係性」について語っていきたい。 ※アシリパの「リ」は正式にはアイヌ語仮名の小書きだが、本記事では「アシリパ」と表記する。 漫画『ゴールデンカムイ』が成し遂げた偉業の数々 『週刊ヤングジャンプ』で連載された漫画、『ゴールデンカムイ』。2022年4月に完結し、全31巻のコミックスの累計発行部数は2024年8月時点で2900万部を突破した。 莫大な金塊をめぐる争奪戦を描いた作品で、バトルはもちろん、アイヌとの交流、北の大地のグルメ、日露戦争や新撰組といった歴史ロマン、謎解きなどさまざまな要素がちりばめられ、ギャグからシリアスまでとにかく盛りだくさんの物語だ。 「このマンガがすごい!2016オトコ編 第2位」「マンガ大賞2016」「第22回手塚治虫文化賞 マンガ大賞」など、数々の賞を受賞している。 2018年にアニメ化され第四期まで放送、2024年1月に実写映画化された。2024年10月6日からは、WOWOWで全9話の連続ドラマ『ゴールデンカムイ-北海道刺青囚人争奪編-』も放送予定だ。 エンタメ作品としてはもちろん、アイヌをはじめとした少数民族への徹底した取材が高く評価され、なんと国立アイヌ民族博物館で特別展示までされている。 完結したいまでもなお根強い人気を誇る、とにかくすごい漫画なのである! 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 12巻 キャラクターの変態率と男性の肌色率がちょっと高いだけで、すごい漫画なんだよ! ホントだよ! 時系列順!杉元とアシリパの関係性を追っていく ゴールデンカムイの登場人物はみんな濃くて魅力的だけど、語るならやっぱり主人公である杉元とアシリパだよなァ!? 変態ばっかりで見逃しがちだけど、この2人の関係性って、すごく丁寧に描かれているんですよ。そこを改めて振り返って、盛り上がりたい! 今回は原作未読の方のため、キャラの生死や謎解きの答え、結末については極力言及を控えている。しかし「時系列ごと」という記事のコンセプト上、大まかな展開については触れているので、ネタバレにはご注意を。 戦争帰りの軍人とアイヌの少女が「相棒」に 日露戦争帰りの杉元は、目を患った幼馴染の手術費を稼ぐため、北海道で砂金を集めていた。そんなとき耳にしたのが、アイヌが集めた金塊の噂。 網走監獄から脱獄した死刑囚たちには入れ墨が彫ってあり、その暗号を解読すれば、莫大な埋蔵金の在処がわかるらしい。 さっそく脱獄囚探しを始めた杉元が出会ったのは、アシリパというアイヌの少女。彼女の父は5年前、金塊をめぐる争いで死んだと言う。そこで杉元はアシリパに、「相棒関係」になることを提案する。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 1巻 相棒になった2人は、広大な北の大地を旅し、ともに狩りをして食事を楽しむ。アシリパはいつも、笑顔で「ヒンナヒンナ(食べ物に感謝する言葉)」と言い、杉元もまた、アイヌの文化に触れていく。 そんななか、軍隊である第七師団まで金塊を狙っていると知り、杉元はアシリパを巻き込まないために何も告げずに姿を消す。……が、あっさり第七師団に捕まってしまう。 置いて行かれたアシリパは、杉元を第七師団から奪還。かっこいいぜ、アシリパさん。 「金塊を探すのは危険だ」と言う杉元に対し、アシリパは「危険は覚悟のうちだ」「自分で判断したから協力すると決めたんだ」と毅然と言い返す。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 3巻 そうだそうだ、捕まったのお前だろ! 言っちゃえアシリパさん! 杉元は優しいから、アシリパを血みどろの争いに巻き込みたくない。しかしアシリパは、自分の生き方は自分で決めるから、杉元に守られたくはない。 この2人の考え方、生き方こそが、『ゴールデンカムイ』の軸なのだ。 心が戦場にいる杉元…アシリパとの旅で癒されていく あるとき、山の中で急に天気が崩れ、緊急避難していたときのこと。 金塊争奪戦で命を落とした脱獄囚のことを思うアシリパに、杉元は「悪人は痛みを感じないから同情しなくていい」と言う。それに対し、「子供だと思ってバカにしてるのか?」とむっとするアシリパ。 しかし杉元は、日露戦争でロシア人を殺すときにそう思い込むようにしていた、と話す。そうやって別の人間にならないと、生き残れなかったから……。 杉元の心はいまだに、銃声が鳴り響き多数の死体が積み重なる、戦場にいるのだ。 過去を話した杉元に、アシリパは「(杉元が戦争に行く前よく食べていた)干し柿を食べたら、戦争へ行く前の杉元に戻れるのかな」とつぶやく。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 10巻 「戦争だからしかたない」と慰めるのではなく、「好きなものを食べて戦争前の杉元に戻ってほしい」と願うのが、アシリパらしい。2人が北海道でいろんな動物を狩って、一緒に食べてきたからこその言葉だ。 普段はあまり自分の話をしない杉元が珍しく弱さを見せ、アシリパが杉元を救おうとする、個人的に大好きなシーンである。 いつまで「相棒」?伝わらない気持ち あるとき一行は、競馬場に行くことに。そこで賭け事が大好きな白石は、占い師の力を借りて金儲けをもくろむ。 アシリパと占い師が2人きりになったとき、占い師に「大金を手にしてしまったら、(杉元さんは)アシリパちゃんに協力するでしょうかね?」と言われ、アシリパは何も言えずにうつむく。 一方杉元は、「(金塊探しに)命なんかかけなくても稼ぐ方法が目の前にあるじゃねえかッ」と叫ぶ白石に対し、「必要な額のカネが手に入ったから『いち抜けた』なんてそんなこと‥‥‥、俺があの子にいうとでも思ってんのかッ」とブチギレ。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 7巻 杉元、アシリパにそれを言ってやれよ~!! その一言でどれだけ安心すると思ってるんだよ~!! アシリパは杉元を「相棒」として対等に見ているからこそ、相棒である理由(金塊)がなくなれば、そこで終わりなんじゃないかと思っている。 でも杉元にとってアシリパは「相棒」だから、ちゃんと最後まで見届けるのが当たり前、そんなこと言う必要はないと思っている。 お互いの生き方がモロに出ているすれ違いが切なくて、「杉元ォ……。アシリパさァん……。幸せになってェ……」と願わずにはいられない。 ちなみに別のシーンでも、杉元は「俺はあの子が真実にたどり着くのを見届けてあげたい」と言っている。「見届けたい」んじゃなくて、「見届けてあげたい」って言い方をするのが、杉元という男なんですよ。 「人を殺す」という一線がふたりを分かつ 金塊争奪戦中盤。金塊をめぐり人が人を殺し合い、さらなる争いを呼ぶーー。 杉元はすべての元凶である人間が、アシリパをアイヌを導く存在として担ぎ上げようとしていることを知る。アシリパはアイヌのために戦うべきだ、と。 杉元はそいつの胸ぐらを掴んで、「あの子を俺たちみたいな人殺しにしようってのか!!」と激昂。「アシリパさんには…山で鹿を獲って脳みそを食べてチタタプして、ヒンナヒンナしていて欲しいんだよ俺はッ!!」と吠える。 そう、杉元は最初から一貫して、ずっとずっとアシリパの平穏な幸せを願っているのだ。しかしこの争いに身を置く以上、それは難しい。 アシリパ自身、殺人を忌避するアイヌの考えを持っている。自分はだれも殺さないし、殺さずに済む相手は極力見逃す。そうやって旅をしてきた。 しかし人々は、金塊をめぐって殺し合う。それを目の当たりにして、アシリパには迷いが生じる。大切なものを守るためには戦わなくてはいけないのか。たとえ人を殺しても……。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 21巻 人を殺していないアシリパなら、まだ引き返せる。だから杉元はアシリパに、「俺はアシリパさんにこの金塊争奪戦から下りてほしい」と伝える。 そう、ここでもまた杉元は、「金塊争奪戦から下りろ」ではなく、あくまで「下りてほしい」と言うのだ。アシリパと一緒にいたほうが金塊を探しやすいのに、そういう打算的なことは一切考えてないんだろうなぁ。 このシーンが描かれた206話のタイトルが「ふたりの距離」っていうのがもう……泣いちゃう……。 このまま一緒に…迫る「相棒」の期限 迷い続けていたアシリパだが、敵である第七師団に捕らわれるという大ピンチのなか、彼女らしい答えを出す。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 21巻 力強いアシリパの宣言に対し、杉元も笑顔で、「よしッ!! 俺たちだけで金塊を見つけよう!!」と答えて逃走。 そうだよ、2人には笑顔で狩りしてヒンナヒンナ言いながらおいしいご飯を食べててほしいよ~! そして金塊争奪戦も、いよいよ終盤へ。金塊の在処を示すヒントを思い出したアシリパは、明確に「旅の終わり」を意識しはじめる。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 25巻 「いっそのこと金塊は見つからないで、このまま一緒に…」と、アシリパのなかには杉元との未来を望む思いが芽生える。 杉元は「埋蔵金が見つかっても、アシリパさんがこの事件に納得が出来るまで、相棒のままでいる」と伝えるも、アシリパは切なそうに、心の中で「本当に聞きたかった答えはそれじゃないんだけどな…」とつぶやく。 アシリパは相棒関係の期限を延ばしてほしいんじゃないんだ。相棒じゃなくなってもそばにいてほしいんだよ! 杉元は、すべてが終わったら金塊争奪戦のことなんて忘れてアシリパさんには平穏な生活を……とか考えてそうだけど、そうじゃないんだって! 最終巻でようやく本当の相棒に!2人が出した答えとは 杉元とずっと一緒にいたいアシリパ。アシリパには平穏に生きてほしい杉元。それぞれ別の思いを抱えながら迎えた最終決戦。 ついにアシリパは、杉元を助けるため、明確な殺意をもって敵に毒矢を放つ。「私は杉元佐一と一緒に地獄へ落ちる覚悟だ」と、迷いのない瞳で。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 31巻 清いままのアシリパでいることを願っていた杉元は、その覚悟を目の当たりにして、少し切なそうに、それでいて嬉しそうに目を細める。 そして「俺は結局のところ、心の底から相棒扱いしてこれなかったんだ。彼女が俺と一緒に、地獄へ落ちてくれるつもりでいるとわかるまで…」という、杉元のモノローグが続く。 「地獄に落ちるつもり」じゃなくて、「落ちてくれるつもり」という言い回しをするのが、ザ・杉元なんですよ……。いつも人のことばっかりでさぁ……。 いよいよ金塊の在処にたどり着いた一行。しかし関わった人たちが次々と命を落とす状況で、追い詰められたアシリパはふり絞るように、「金塊をあきらめてほしい」と杉元に懇願する。だれかが金塊を手に入れたら、また新たな争いが起こってしまうから。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 31巻 この一言を言うのに、いったいどれだけの勇気が必要だったんだろう。許されないワガママだとわかっていても、アシリパは、杉元に生きていてほしかったのだ。 これまで金塊を求めて命がけの旅をしてきた杉元の答えは……!? 最後まで語りたいところだけど、ラストはやっぱり実際に漫画を読んでもらいたい。未読の方はもちろん、すでに読んだ人も、ぜひもう一度最終話を……! 杉元とアシリパの2人だからこそ生まれた物語 最後にちょっとだけ、2人の呼び方が最高すぎるという話も書いておきたい。 杉元は敬意を込めて「アシリパさん」と呼び、アシリパは対等な存在として「杉元」と呼ぶ。アシリパちゃん、杉元さんじゃ絶対に成立しない関係性が、ここにはあるのだ。 この2人の関係性は安易な恋愛感情に根ざしているのではなく、2人の生き方がそのまま反映されている。 もし杉元が、他人より自分を優先させる人間だったら。もしアシリパが、守られることを望み真実から目を背ける人間だったら。そんな2人であれば、こうはならなかった。 杉元とアシリパだからこそ相棒になり、そして『ゴールデンカムイ』の物語が生まれたのだ。いやもう、激熱すぎる。 あー、ここまで書いたらまた読みたくなっちゃったな! というわけでもう一度最初から読み直すわ! みんなも『ゴールデンカムイ』読もうぜ! あ、いろんな変態が出てくるから覚悟しとけよ! ー--------- 雨宮紫苑 ドイツ在住フリーライター。Yahoo!ニュースや東洋経済オンライン、現代ビジネス、ハフィントンポストなどに寄稿。著書に『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)がある。