WOTONAKICHI
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SFマニアの私が解説する世界的ヒット作「三体」の魅力

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「ドラマに小説に大盛りあがりの中国SF『三体』の魅力を語る!」。冬木糸一さんが書かれたこの記事では、中国SF『三体』への偏愛を語っていただきました! こんにちは、冬木糸一です。 今回は日本を含む世界中でベストセラーとなり累計で3000万部以上を売り上げた歴史的な中国SF『三体』を、今日本で読むことができる小説と二本のドラマを中心に紹介させてもらおうかと思う。というのも、『三体』は先日三部作のすべてが文庫化され、別作者によるスピンオフ長篇『三体X』や事実上の前日譚『三体0』も翻訳済み。さらにはNetflixで第一部のドラマ化、中国本国で作られたドラマ版も各種配信サイトで視聴できて──と、小説から映像媒体まで入口が揃ってきたからだ。 『三体』とは何なのか? なぜ世界中で盛り上がっているのか? 最初に『三体』の盛り上がりについて触れておくと、これが世界的に人気を博したのは、世界的に有名なSF賞であるヒューゴー賞を、2015年にアジア人作家として初めて受賞したのがきっかけとなっている。その受賞後、オバマ元大統領、FacebookCEOのマーク・ザッカーバーグなどの著名人も相次いで推薦。もともと中国国内では盛り上がっていた作品だが、その人気が世界中に広がっていったのだ。 日本でもこの時期(2015年頃)以降に「三体っていうのがスゴいらしい」「いつ日本語に翻訳されるんだ!」「原書・英語で読んだけどすごかった!」と評判が伝わってきたものだ。そこから日本で第一部が翻訳で読めるようになったのが2019年のこと。その後あれよあれよという間に日本でも累計80万部を突破し、今年はついにドラマも日本で公開され──と、いまだに破竹の勢いでその人気が広まっているのだ。こうした人気には中国が国策としてSFを推進していることも関係している。なかでも成都は「SF都市」としてPRされ、昨年は中国で初の世界SF大会(世界SF協会が主催し、戦術のヒューゴー賞の受賞作を参加者らの投票で決定する)もここで開催された。 入口は多く、そのどれもに良さがあるので、『三体』未体験、もしくは観ていない・読んでいないものがある人は、本記事が手をつけるきっかけになったら幸いである。 原作《三体》三部作 というわけで、最初にすべての基本となる原作小説の紹介から入ろう。現在三部作すべてが文庫化されており、第一部は一冊、第二部『黒暗森林』と第三部『死神永生』がともに上下巻となっている。これまで内容の話を一切せずに持ち上げてきたが、本作の物語は基本的にはシンプルな”ファーストコンタクト物”であるといえる。 ファーストコンタクト物とは人類が地球外文明・生物とはじめて接触した時の驚きやコミュニケーション、時には戦争に至るまでを描き出すSF内のサブジャンルだ。《三体》三部作の中で、人類ははじめて地球外の生命体と遭遇し、種の存続を賭けて戦うことになる。本作が世界中で評価されたのは「それだけのことをどこまでもスケールをデカく、しかも緻密に突き詰めて描き出したから」という点にあるだろう。 さらには、中国発の作品らしく中国の文化に根ざした──本作は文革の過程で科学者の父を殺され、人類に絶望した女性が最初の主人公となる──第一部から、次第に地球人類全体の物語へと移行し(第二部)、最終的にはこの宇宙に住まう生命全体の行く末を描き出す(第三部)ような、ローカルな文化描写とグローバルを超えた宇宙論的な視点を併せ持っている点も、世界中で大ヒットしている要因といえる。 その性質上物語は第一部〜第三部まででテイストが異なっていて、筆者(冬木)は四回ほど読書会に参加したがみんな好きな部もバラけていた。たとえば第一部はすべてのはじまりを描き出す物語で、なぜ地球から遠く離れた地に住んでいた三体星人が地球を発見したのか、またなぜ地球人類を征服するためにやってくることになったのか、その顛末が中国での文化大革命と合わせて描き出されていく。1970年代から2000年代の比較的現代に近い時代を描いていて、文学的な魅力が光るパートだ。 続く第二部は、地球に向かってくる三体星人をどうにかして打ち倒さねばならぬ──となった地球人類が、三体星人よりもはるかに劣る科学技術で奮闘する「頭脳バトルパート」にあたる。この部数がエンタメ的な濃度は一番高い。というのも、ある事情から地球の通信はすべて三体星人に傍受されていて、声に出したり通信を行うとすべてバレることから、信頼できるのは「天才の頭の中だけ」という状態から頭脳戦がはじまるのだ。三体星人に対抗するため作られた惑星防衛理事会は「面壁計画」を立ち上げ、天才的な四人の人物を選出し、彼らに人類のリソースを集約することになる。 面壁者と呼ばれる選ばれし四人は、そのリソースを真意を説明せずともあらゆることに使用することができる。一見不可解なことや馬鹿げたことにリソースを費やしているように見えても、それはすべて人類もろとも三体星人を騙すための”ブラフ”なのかもしれないのだ。 それに続く第三部はこれまでの二作と比べるともっともSF度の高い作品だ。物語はまず第二部で進行していた事態の裏側で起こっていたことから始まり、最終的には惑星規模を超えて全宇宙における生命の生存戦略にまで話のスケールが及ぶ。 著者の劉慈欣によれば、最初の二巻はSFファン以外の一般読者に広く受け入れてもらうために、現代や近未来を舞台にし、物語の現実感を高めた。しかし第三部に至っては、物語ははるかな未来や本格的に宇宙を舞台にした物語となり、ハードコアなSFファンを自認する劉慈欣自身が心地よく感じる、”純粋な”SF小説を書くようにしたのだという。そうした振り切った作品として書かれた第三部はしかし中国本国でも大人気となり、本邦での三部の評判も(普段あまりSFを読まない読者にも)良い。 読み始めた読者には、ぜひ第三部のラスト──壮大な物語の果てに、寂寥感の残る情景が訪れる──にたどり着いてもらいたいものだ。 ドラマはどちらから見るべきか? 続いて映像作品の紹介に移ろう。こちらは現在日本国内から視聴できるものとしては、Netflix版とテンセント版の二種類が存在する。それぞれの特徴を書いておくと、Netflix版は主な舞台をイギリスに移して原作を再構成した物語になっていて、話数的にも概ね原作第一部に相当する部分が全八話とコンパクトにまとまっている。 もう一方のテンセント版(現在AmazonPrimeやU-NEXT、FODプレミアム、TELASAなどに有料登録することで視聴可能)は本家本元の中国で作られたドラマだ。中国人中心のキャストで、各話40〜50分の全30話と、たっぷりと尺を使って原作に忠実に映像化を試みているのが特徴である。 Netflix版について 原作の再現度や、「文字はたくさん読む気がしないけれど物語は原作通りのものが堪能したいな〜」というのであればテンセント版を薦めるが、Netflix版にはNetflix版の良さもある。そもそもNetflix版は最初から制作を進めるにあたって大きな制約があったようで、制作者らは「ドラマを英語版として作る」権利を持っており、登場人物はみな英語で話すことを前提として作品を作らなければならなかったのだ。 それで改変して物語がとんちんかんだったら問題だが、本作は原作既読勢からみてもそう違和感のない内容に仕上がっている。違和感なく物語を再構成するため、物語の舞台は中国からイギリス・オックスフォードへと移り、さらに各部にまたがった物語を一貫した(人間関係の)ドラマとしてまとめあげるために、原作で第一部、第二部、第三部で異なるはずの登場人物を序盤から登場させたり──と、さまざまな変更を行っている。 本作のスタッフは大きく話題になったファンタジー大作ドラマの『ゲーム・オブ・スローンズ』と共通していて、彼らが経験豊富で得意な群像劇の魅力を本作で存分に発揮しているといえるだろう。後述するが、テンセント版では原作で重要な意味を成す文化大革命のシーンが大幅にカットされている一方、このNetflix版では冒頭から(文革のシーンを)丹念に描くなど、プロットや登場人物は異なっても作品の核はきちんと引き継いでいる。「もう一つの三体」が楽しめるのは間違いなくNetflix版の美点だ。 登場人物がわっと出てくることもあって序盤のテンポこそ悪いものの、後半の山場である「古筝作戦」(第五話「審判の日」)まで視聴すれば、あとはラストまで一気だろう。 テンセント版について 一方のテンセント版の良さはなんといっても長大な尺を活かした映像表現の豊かさだ。たとえば、原作『三体』の第一部では、VRゲーム「三体」が重要な役割を果たすが、VRというだけあって視覚的にはなんでもあり。たとえば十万桁までの円周率を求めよという始皇帝の無茶振りに答えるため数百万の軍隊を用いて人間計算機を構築するシーンが原作にはあるのだが、こうした壮大なシーンも予算も尺もとってじっくりと描き出している。 他にも原作勢的には、原作でちょい役だった人たちがこのドラマ版では30話と尺たっぷりなせいか描写が盛られていること(史強の部下である徐冰冰など)、原作通り物理学や天文学の専門用語が飛び交うこと──といったあたりは、『三体』の物理学部分の壮大なホラの吹き方が好きな人にはたまらないだろう。役者陣も、中心人物の汪淼を演じる张鲁一をはじめとして、個人的には非常によくマッチしていると感じた。 全30話と長大なドラマで説明がひたすら長い回などもあるのでダレがちだったり、こちらはやはり文化大革命の描写が弱い点、主人公らを明確な悪にしづらい点(先述の「古筝作戦」の描写でそれが露骨に出る)もあり、良い点、悪い点がNetflix版とテンセント版では見事に表裏に分かれているなと感じる。 おわりに 原作やドラマなど、何から『三体』に入るのが正解ということはないので、この記事で興味を持った人は(まだ読んで/観ていないものがある人も)手を出すきっかけになってもらえたら嬉しい。このあとドラマもシーズンが続いていくし、映画化も、スピンオフ作品も出てくるようなので、しばらく『三体』フィーバーは続きそうだ。

人生に必要なことは全部銀英伝に学んだ

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「人生に必要なことは全部銀英伝に学んだ」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、銀河英雄伝説への偏愛を語っていただきました! 『銀河英雄伝説』は現役バリバリのコンテンツ。 田中芳樹先生が執筆された『銀河英雄伝説』(以下、銀英伝)をご存じだろうか。ご存じでない奇特な方のために簡単に概要を説明すると、もともとは1980年代に発表されたスペースオペラ小説で、1980年代から2000年代にかけて、映画やOVAやゲーム、パチンコ等メディア展開された超名作である。 物語の内容は【宇宙を二分する「銀河帝国」と「自由惑星同盟」、そこに割って入ろうとする「フェザーン自治領」の興亡史であり、二人の主人公「常勝の天才」ラインハルト・フォン・ローエングラム(銀河帝国)と「不敗の魔術師」ヤン・ウェンリー(自由惑星同盟)を中心に魅力あふれる多くの登場人物がそれを彩る一大叙事詩】になるだろうか。「銀英伝」に触れたことがなくても「常勝の天才」「不敗の魔術師」という言葉は耳にした方もいるのではないだろうか。 いや、こんな陳腐な概要では「銀英伝」の魅力は一ミリも伝えられていない。とにかく、めちゃくちゃ面白い作品なのである。面白いだけではない。勉強になる。大げさではなく、「人生について」考えさせられるものであり、教科書が教えてくれない「人間とは何か」を教えてくれるテキストであり、見せ場が数多くあるエンタメ作品だ。僕は「銀英伝」から、人生で必要なことのほとんどを学んだと自負している。優れたエンタメ作品に触れると、「銀英伝」と比較することもあった。会社で上司にムカついたときは、夜の従業員用トイレの鏡に向かって「くたばれ皇帝(カイザー)」とつぶやいた。これはヤン艦隊の口ぐせだけどね。 80年代に原作小説、90年代にオリジナルアニメと劇場版が発表されるなどして大ブームを巻き起こした「銀英伝」。ネットを検索すれば原作や旧アニメを愛した猛者たちが熱く語っているのを発見できるけれども、原作や最初のアニメが発表されてから30年以上も経過した作品であることもこれまた事実である。 ところが、なんと数年前(2018年)から原作の再アニメ化『銀河英雄伝説 Die Neue These』がスタート。これが旧アニメに負けず劣らずまた面白いのである。さらに2024年10月からは新作スマホゲーム『銀河英雄伝説 Die Neue Saga(ノイサガ)』がリリース!まだ遊んでいないけれども、きっと名作に違いない。きっと、銀河帝国か自由惑星同盟の提督のひとりとなって、ラインハルトやヤンの麾下で活躍するゲームなのだろう。きっとそうだ。 なんということでしょう。2024年、「銀英伝」が最新のエンタメとしてカムバックしているではありませんか。今こそ、「銀英伝」の素晴らしさを語る絶好のときではないか。というのが長すぎる前置きなのである。 銀英伝との出会いは上下二段組で文字がぎちぎちに詰め込まれたノベルズ版だった。 断言しよう。田中芳樹先生が書かれた「銀英伝」を知らない人は人生において大きな損をしている。なぜなら、人生に必要なことのすべては「銀英伝」から得られるからである。実際、僕は「銀英伝」からすべてを学んだ。「銀英伝」は、学校や教科書が教えてくれない、人間の業や人生の空しさ、浪漫といったものを与えてくれた。 大袈裟ではない。僕は「銀英伝」を夏休みの課題図書にすべき、さらに、「銀英伝」を学校のカリキュラムに入れるべきだと本気で考えている。たとえば、大学では社会に出ると直面する、アホな人間や、人間のアホな行為、アホアホがしょうもない理由で行われることを、あらかじめ「銀英伝」で学んでいなかったら、僕はハラスメントな労働環境(90年代でしたので……)で、心身を壊し、こうして世間様に向かって駄文を垂れ流せなかっただろう。 そんな僕と「銀英伝」との出会いは、小学生時代にさかのぼる。原作小説がトクマノベルズで書き下ろし発表されていた頃だ。第五巻が書店の新刊コーナーに平積みされていて、加藤直之先生の無骨なイラストがたまたま目に留まったのだ。なんか当時好きだったサンライズのロボットものとは違う渋めの絵に導かれてしまったのだ。 手に取ってビックリ。1ページを上下二段に分けてびっしり小さな文字で埋められていたからだ。漢字も多い。小説を読み始めたばかりの頃だったので、世の中にはヤバい本があると仰天したのだった。その日、第一巻を買って帰った。面白くて何日かかけて読破した。 先が気になって両親に頼んで刊行されていた五巻まで買ってもらって一気に読んだ。当時ノベルズは書き下ろしで、半年に一冊のペースで発表されていた。半年ごとに発表される新作が待ちきれなかった。どの巻も見どころがあってわくわくした。第五巻以降の自由惑星同盟がああなってしまうのには衝撃を受けたし、第八巻の「魔術師還らず」のエピソードを読み終えたときには「嘘……」と放心した。「魔術師還らず」は、僕がこれまでの人生で創作物から受けた衝撃の大きさトップ5に入る。 原作は十巻で完結。記憶が正しければ僕が中学2年生の秋。しばらくするとアニメ(OVA)が制作された。これがまた見事に原作の世界観が映像化されている名作であった。ちなみに声優陣がアニメ史上最強に豪華。作中の艦戦シーンでクラシック音楽が流れるのだけれども、銀英伝以降、戦闘シーンにクラシック音楽が流れないと何か物足りない気分になるという副作用が出ている。 ボンクラ小学生にとって銀英伝の何がすごかったのか。 まず、「主人公が二人」というのが斬新だった。それもバディ関係ではなく、対立している勢力のキーパーソンとして、同時にライバルとして主人公が二人いるというのが新鮮でならなかった。大人の小説とは、こんな構成をしているのかと驚いたものだ。 ところが今日まで、銀英伝のように主人公二人が対立し、かつ、お互いをリスペクトしていて、なおかつ魅力的で、そして面白い作品は稀有である。主人公二人が対立している作品は、たとえば「ガンダムSEED」のキラとアスランのように、直接対決、対決を乗り越えたあとに共闘するという展開で、物語を盛り上げようとするけれども、「銀英伝」の二人の主人公、ラインハルトとヤンは直接会って会話をするのは……あれ?もしかしたら中盤の超クライマックス「バーミリオン会戦」終了後の会談の一回のみ、かもしれない。 また、銀河帝国と自由惑星同盟が、会戦で激突するときのスケールの大きさに驚いた。数万隻の艦隊同士が戦い、会戦後は数百万人の犠牲者が出るのだ。銀英伝と同じ位好きな機動戦士ガンダムと比べると、ガンダムがせいぜい地球と月、木星位までが舞台で、艦隊戦が数十隻レベルなので、そのスケールの大きさに度肝を抜かれたのである。 登場人物が異常に多いから面白い。そしておバカさんも多い。 「銀英伝」は登場人物が多い。最近文庫版が発売されてベストセラーになった「百年の孤独」が登場人物の多さで話題になったけれども、「銀英伝」はさらに多い。 「百年の孤独」が同じ名前、似たような名前(アウレリャノ…)が多いのに対し、「銀英伝」は、末端の役に至るまでしっかり異なる名前がつけられている。「登場人物が多い」というと、それだけで「ちょっと……」とアレルギーを感じる人は多いかもしれない。ところが安心。「銀英伝」は、登場人物は多いが原作小説はめちゃくちゃ読みやすいし、アニメ版もキャラクターの多さで話が混乱することも皆無である。 楽しむコツがある。推しのキャラを作るのだ。一人でなくてもいい。何人か推しをつくる。「銀英伝」には多種多様なキャラクターが登場するので推しを見つけることは容易い。そして推しを中心に楽しむこと。それだけでいい。たくさんの登場人物が出てくるが、推し以外は無視でオッケー。いけすかないキャラやむかつくキャラはあっさりと物語から退場していくので気にしないでもまったく問題ない。たとえば、自由惑星同盟のパエッタ中将(ザコ)がどうなったのか気にしなくてよい。僕の体感では名前のあるキャラクターの約3割は記憶に留めなくてもよい。登場人物が多いため、推しを変えて繰り返し楽しめるのが「銀英伝」である。 田中芳樹先生は「ムカつくキャラクター」「イキっているキャラクター」「どうでもいいキャラクター」には、勧善懲悪的に酷い結末を与えているのでそれも見どころ。作中で「無能」と評価されているキャラクターが調子に乗っていると、「酷い結末が待っているのだろうなあ……」と盛り上がってきて、そのとおりのオチになるのでスッキリする。同様に「有能なキャラクター」「実直なキャラクター」「主人公及び主人公を支えるキャラクターたち」には、愛のある描写をしており、中には志半ばで倒れるものもいるけれども、亡くなり方もカッコいい見せ場をつくってくれるのである。 「銀英伝」に登場するキャラクターは、軍人であれ、官僚であれ、高い位にあるエリートである。銀英伝には馬鹿がたくさん登場する。それは、無能な人物であってもやり方によってはある程度立身できることを意味している。僕は、「銀英伝」に登場する無能なキャラクターのような人物が実際に存在すること、ましてや組織の上において(トップではないにせよ)そこそこな地位・立場についているのを見て、「これはいくらなんでもフィクションだろう」とゲラゲラ笑っていた。 しかし、実際に自分が社会人になったとき、無能な人物が高い地位にいて、かつ、傲慢な態度を見せていて、「銀英伝に書かれていることは、本当なんだ」と感動したものだ。無能な人がどういう行動原理から組織で立ち回るのか、あらかじめ銀英伝で学んでいた僕は、心身のダメージを最小限に抑えられたのである。ありがとう「銀英伝」。田中先生。「銀英伝」みたいに無能が全員わりと悲惨な結末を迎えることはなかったけれどね。 タイミングの良いところで発生する〇〇イベント 「銀英伝」は長い。そしてたくさんのキャラクターが登場する。政治劇や宮廷劇が続くと正直ダレる。物語がダレてきたときに、発生するイベントがある。頻度としては初期ノベルズ版で一巻あたり1回か2回。そのイベントとは「会戦」である。 銀河帝国と自由惑星同盟(同盟崩壊後はヤン艦隊)が、大艦隊同士で対峙する会戦が発生する。主な会戦は、戦略的な意義やそこで見られる戦術が異なり、テンションが上がる。特に旧アニメではクラシック音楽が会戦シーンを盛り上げていた。 会戦は、銀河帝国、ラインハルト陣営の圧倒的な戦力と才能あふれる提督たち、それに奇策をもって対抗するヤン艦隊の戦いぶりが見どころになる。はっきりいってヤン・ウェンリーの能力はチートである。質・量ともに圧倒的なラインハルト陣営をことごとく打ち破っていく姿は、今流行りの転生チート系の物語の元祖のようにも思えるくらいだ。「銀英伝」はヤンのチートぶりを楽しむのがいちばん分かりやすい楽しみかたといえる。僕もそうでした。 新・三大銀英伝「推しキャラクター」 ①門閥貴族連合 フレーゲル男爵 物語序盤、銀河帝国の旧勢力門閥貴族連合とラインハルト陣営との間で内戦が勃発するのだけれども、そのとき門閥貴族連合の盟主ブラインシュバイク公(無能/アホ)の甥として登場。生まれながらの貴族で選民思想が強く、そのうえ、自己陶酔が激しく、周りに迷惑をかけまくりのアホ貴族。その味わい深い言動は各自、原作小説かアニメで確認していただきたい。迷惑なアホぶりで門閥貴族連合の壊滅的敗北を招いたうえ、敗勢が決定的になったあとも自らが乗艦する戦艦で相手に一騎打ちを挑もうとし、さらには周囲を巻き込んで道連れにしようとしたところ、愛想をつかした部下たちに射殺されるという田中芳樹先生のアホにはアホの結末を体現した味わい深いキャラクターである。ムカつくけど憎めない面もあるので推し候補にいかがだろうか。 ②シュタインメッツ提督(カール・ロベルト・シュタインメッツ) ラインハルト陣営の幕僚のなかで、もっとも地味な男。物語中、原作やアニメにおいても描写や活躍シーンがほぼないながらも、なぜか主要提督たちと同じ階級(中将、大将、死後元帥)にいた謎の男である。印象的なシーンがまったくないから記憶に残らない。数年おきに到来する「銀英伝」ブームのたびに、「今回はシュタインメッツに注目して物語を追ってみよう」と決意するのだが、いつのまにか登場して去っていく、とにかく地味オブ地味なキャラクター。アニメ版でもキャラデザがモブっぽくて何とも地味。僕はもうシュタインメッツさんを追うのは諦めました。これから「銀英伝」に入ろうとする人にはシュタインメッツの謎を解明してもらいたいものである。 ③アイゼナッハの副官 ラインハルト陣営の提督「沈黙提督」の異名をもつアイゼナッハ(エルンスト・フォン・アイゼナッハ)の副官。アイゼナッハ提督は「沈黙提督」といわれるだけあり、ほとんど話をしないキャラクターである。それゆえ原作小説において台詞はほぼなしという、小説というメディアに挑戦したキャラクターともいえる。そんな沈黙さん、艦隊を指揮するときも無口。ジェスチャーや指を鳴らすなどして指示を出すわけだが、それを解読して艦隊に指示を出す副官さんが優秀すぎて、目を離せなくなる。つか、副官が本体なのでは? と思えてくるから不思議である。沈黙提督という変人の副官に注目してもらいたい。 主人公二人以外で僕が好きなのは、メルカッツ(ウィリバルト・ヨアヒム・フォン・メルカッツ)やシェーンコップ(ワルター・フォン・シェーンコップ)かな…亡命するキャラクターばかりだ。現実逃避したい願望のあらわれだろうか。余談だが、ウチの奥様の推しキャラクターはハンス・エドアルド・ベルゲングリューン(地味なので調べてみてください)。 「銀英伝」になぜハマったのか、から「銀英伝」の僕なりの楽しみ方についてねちねちと語ってきた。繰り返すが、新訳アニメ『銀河英雄伝説 Die Neue These』が制作されて、スマホゲーム『銀河英雄伝説 Die Neue Saga(ノイサガ)』のサービスがこの10月にはじまった今こそが「銀英伝」に触れる絶好の機会だ。さあ「銀英伝」を楽しもう。

漫画『ゴールデンカムイ』の杉元とアシリパの関係が好きすぎて1万キロの旅をする

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「金塊争奪戦の相棒!漫画『ゴールデンカムイ』の杉元とアシリパの関係性が好きすぎる」。雨宮紫苑さんが書かれたこの記事では、『ゴールデンカムイ』の杉元とアシリパの関係性への偏愛を語っていただきました! 2019年、秋風が吹き始めたころ。 わたしは「地の果て」と呼ばれた網走監獄の前に立っていた。 神奈川県出身、ドイツ在住。そんなわたしが一時帰国中、なぜわざわざ北海道、しかもかなり端っこにある博物館網走監獄まで足を運んだのか。 それは、漫画『ゴールデンカムイ』にはまっていたからですよ! まさか人生初の聖地巡礼が監獄になるとはね! 甲状腺の病気になり、人生で初めて手術することになったときのこと。暇つぶしに手に取った漫画『ゴールデンカムイ』にドハマりし、時間を忘れて読みふけった。そして一時帰国した際、迷わず北海道に向かったのだ。 杉元とアシリパのコンビが好きすぎる……ッ!! というわけで今回は、時系列順に「杉元とアシリパの関係性」について語っていきたい。 ※アシリパの「リ」は正式にはアイヌ語仮名の小書きだが、本記事では「アシリパ」と表記する。 漫画『ゴールデンカムイ』が成し遂げた偉業の数々 『週刊ヤングジャンプ』で連載された漫画、『ゴールデンカムイ』。2022年4月に完結し、全31巻のコミックスの累計発行部数は2024年8月時点で2900万部を突破した。 莫大な金塊をめぐる争奪戦を描いた作品で、バトルはもちろん、アイヌとの交流、北の大地のグルメ、日露戦争や新撰組といった歴史ロマン、謎解きなどさまざまな要素がちりばめられ、ギャグからシリアスまでとにかく盛りだくさんの物語だ。 「このマンガがすごい!2016オトコ編 第2位」「マンガ大賞2016」「第22回手塚治虫文化賞 マンガ大賞」など、数々の賞を受賞している。 2018年にアニメ化され第四期まで放送、2024年1月に実写映画化された。2024年10月6日からは、WOWOWで全9話の連続ドラマ『ゴールデンカムイ-北海道刺青囚人争奪編-』も放送予定だ。 エンタメ作品としてはもちろん、アイヌをはじめとした少数民族への徹底した取材が高く評価され、なんと国立アイヌ民族博物館で特別展示までされている。 完結したいまでもなお根強い人気を誇る、とにかくすごい漫画なのである! 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 12巻 キャラクターの変態率と男性の肌色率がちょっと高いだけで、すごい漫画なんだよ! ホントだよ! 時系列順!杉元とアシリパの関係性を追っていく ゴールデンカムイの登場人物はみんな濃くて魅力的だけど、語るならやっぱり主人公である杉元とアシリパだよなァ!? 変態ばっかりで見逃しがちだけど、この2人の関係性って、すごく丁寧に描かれているんですよ。そこを改めて振り返って、盛り上がりたい! 今回は原作未読の方のため、キャラの生死や謎解きの答え、結末については極力言及を控えている。しかし「時系列ごと」という記事のコンセプト上、大まかな展開については触れているので、ネタバレにはご注意を。 戦争帰りの軍人とアイヌの少女が「相棒」に 日露戦争帰りの杉元は、目を患った幼馴染の手術費を稼ぐため、北海道で砂金を集めていた。そんなとき耳にしたのが、アイヌが集めた金塊の噂。 網走監獄から脱獄した死刑囚たちには入れ墨が彫ってあり、その暗号を解読すれば、莫大な埋蔵金の在処がわかるらしい。 さっそく脱獄囚探しを始めた杉元が出会ったのは、アシリパというアイヌの少女。彼女の父は5年前、金塊をめぐる争いで死んだと言う。そこで杉元はアシリパに、「相棒関係」になることを提案する。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 1巻 相棒になった2人は、広大な北の大地を旅し、ともに狩りをして食事を楽しむ。アシリパはいつも、笑顔で「ヒンナヒンナ(食べ物に感謝する言葉)」と言い、杉元もまた、アイヌの文化に触れていく。 そんななか、軍隊である第七師団まで金塊を狙っていると知り、杉元はアシリパを巻き込まないために何も告げずに姿を消す。……が、あっさり第七師団に捕まってしまう。 置いて行かれたアシリパは、杉元を第七師団から奪還。かっこいいぜ、アシリパさん。 「金塊を探すのは危険だ」と言う杉元に対し、アシリパは「危険は覚悟のうちだ」「自分で判断したから協力すると決めたんだ」と毅然と言い返す。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 3巻 そうだそうだ、捕まったのお前だろ! 言っちゃえアシリパさん! 杉元は優しいから、アシリパを血みどろの争いに巻き込みたくない。しかしアシリパは、自分の生き方は自分で決めるから、杉元に守られたくはない。 この2人の考え方、生き方こそが、『ゴールデンカムイ』の軸なのだ。 心が戦場にいる杉元…アシリパとの旅で癒されていく あるとき、山の中で急に天気が崩れ、緊急避難していたときのこと。 金塊争奪戦で命を落とした脱獄囚のことを思うアシリパに、杉元は「悪人は痛みを感じないから同情しなくていい」と言う。それに対し、「子供だと思ってバカにしてるのか?」とむっとするアシリパ。 しかし杉元は、日露戦争でロシア人を殺すときにそう思い込むようにしていた、と話す。そうやって別の人間にならないと、生き残れなかったから……。 杉元の心はいまだに、銃声が鳴り響き多数の死体が積み重なる、戦場にいるのだ。 過去を話した杉元に、アシリパは「(杉元が戦争に行く前よく食べていた)干し柿を食べたら、戦争へ行く前の杉元に戻れるのかな」とつぶやく。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 10巻 「戦争だからしかたない」と慰めるのではなく、「好きなものを食べて戦争前の杉元に戻ってほしい」と願うのが、アシリパらしい。2人が北海道でいろんな動物を狩って、一緒に食べてきたからこその言葉だ。 普段はあまり自分の話をしない杉元が珍しく弱さを見せ、アシリパが杉元を救おうとする、個人的に大好きなシーンである。 いつまで「相棒」?伝わらない気持ち あるとき一行は、競馬場に行くことに。そこで賭け事が大好きな白石は、占い師の力を借りて金儲けをもくろむ。 アシリパと占い師が2人きりになったとき、占い師に「大金を手にしてしまったら、(杉元さんは)アシリパちゃんに協力するでしょうかね?」と言われ、アシリパは何も言えずにうつむく。 一方杉元は、「(金塊探しに)命なんかかけなくても稼ぐ方法が目の前にあるじゃねえかッ」と叫ぶ白石に対し、「必要な額のカネが手に入ったから『いち抜けた』なんてそんなこと‥‥‥、俺があの子にいうとでも思ってんのかッ」とブチギレ。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 7巻 杉元、アシリパにそれを言ってやれよ~!! その一言でどれだけ安心すると思ってるんだよ~!! アシリパは杉元を「相棒」として対等に見ているからこそ、相棒である理由(金塊)がなくなれば、そこで終わりなんじゃないかと思っている。 でも杉元にとってアシリパは「相棒」だから、ちゃんと最後まで見届けるのが当たり前、そんなこと言う必要はないと思っている。 お互いの生き方がモロに出ているすれ違いが切なくて、「杉元ォ……。アシリパさァん……。幸せになってェ……」と願わずにはいられない。 ちなみに別のシーンでも、杉元は「俺はあの子が真実にたどり着くのを見届けてあげたい」と言っている。「見届けたい」んじゃなくて、「見届けてあげたい」って言い方をするのが、杉元という男なんですよ。 「人を殺す」という一線がふたりを分かつ 金塊争奪戦中盤。金塊をめぐり人が人を殺し合い、さらなる争いを呼ぶーー。 杉元はすべての元凶である人間が、アシリパをアイヌを導く存在として担ぎ上げようとしていることを知る。アシリパはアイヌのために戦うべきだ、と。 杉元はそいつの胸ぐらを掴んで、「あの子を俺たちみたいな人殺しにしようってのか!!」と激昂。「アシリパさんには…山で鹿を獲って脳みそを食べてチタタプして、ヒンナヒンナしていて欲しいんだよ俺はッ!!」と吠える。 そう、杉元は最初から一貫して、ずっとずっとアシリパの平穏な幸せを願っているのだ。しかしこの争いに身を置く以上、それは難しい。 アシリパ自身、殺人を忌避するアイヌの考えを持っている。自分はだれも殺さないし、殺さずに済む相手は極力見逃す。そうやって旅をしてきた。 しかし人々は、金塊をめぐって殺し合う。それを目の当たりにして、アシリパには迷いが生じる。大切なものを守るためには戦わなくてはいけないのか。たとえ人を殺しても……。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 21巻 人を殺していないアシリパなら、まだ引き返せる。だから杉元はアシリパに、「俺はアシリパさんにこの金塊争奪戦から下りてほしい」と伝える。 そう、ここでもまた杉元は、「金塊争奪戦から下りろ」ではなく、あくまで「下りてほしい」と言うのだ。アシリパと一緒にいたほうが金塊を探しやすいのに、そういう打算的なことは一切考えてないんだろうなぁ。 このシーンが描かれた206話のタイトルが「ふたりの距離」っていうのがもう……泣いちゃう……。 このまま一緒に…迫る「相棒」の期限 迷い続けていたアシリパだが、敵である第七師団に捕らわれるという大ピンチのなか、彼女らしい答えを出す。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 21巻 力強いアシリパの宣言に対し、杉元も笑顔で、「よしッ!! 俺たちだけで金塊を見つけよう!!」と答えて逃走。 そうだよ、2人には笑顔で狩りしてヒンナヒンナ言いながらおいしいご飯を食べててほしいよ~! そして金塊争奪戦も、いよいよ終盤へ。金塊の在処を示すヒントを思い出したアシリパは、明確に「旅の終わり」を意識しはじめる。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 25巻 「いっそのこと金塊は見つからないで、このまま一緒に…」と、アシリパのなかには杉元との未来を望む思いが芽生える。 杉元は「埋蔵金が見つかっても、アシリパさんがこの事件に納得が出来るまで、相棒のままでいる」と伝えるも、アシリパは切なそうに、心の中で「本当に聞きたかった答えはそれじゃないんだけどな…」とつぶやく。 アシリパは相棒関係の期限を延ばしてほしいんじゃないんだ。相棒じゃなくなってもそばにいてほしいんだよ! 杉元は、すべてが終わったら金塊争奪戦のことなんて忘れてアシリパさんには平穏な生活を……とか考えてそうだけど、そうじゃないんだって! 最終巻でようやく本当の相棒に!2人が出した答えとは 杉元とずっと一緒にいたいアシリパ。アシリパには平穏に生きてほしい杉元。それぞれ別の思いを抱えながら迎えた最終決戦。 ついにアシリパは、杉元を助けるため、明確な殺意をもって敵に毒矢を放つ。「私は杉元佐一と一緒に地獄へ落ちる覚悟だ」と、迷いのない瞳で。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 31巻 清いままのアシリパでいることを願っていた杉元は、その覚悟を目の当たりにして、少し切なそうに、それでいて嬉しそうに目を細める。 そして「俺は結局のところ、心の底から相棒扱いしてこれなかったんだ。彼女が俺と一緒に、地獄へ落ちてくれるつもりでいるとわかるまで…」という、杉元のモノローグが続く。 「地獄に落ちるつもり」じゃなくて、「落ちてくれるつもり」という言い回しをするのが、ザ・杉元なんですよ……。いつも人のことばっかりでさぁ……。 いよいよ金塊の在処にたどり着いた一行。しかし関わった人たちが次々と命を落とす状況で、追い詰められたアシリパはふり絞るように、「金塊をあきらめてほしい」と杉元に懇願する。だれかが金塊を手に入れたら、また新たな争いが起こってしまうから。 出典:野田サトル『ゴールデンカムイ』 31巻 この一言を言うのに、いったいどれだけの勇気が必要だったんだろう。許されないワガママだとわかっていても、アシリパは、杉元に生きていてほしかったのだ。 これまで金塊を求めて命がけの旅をしてきた杉元の答えは……!? 最後まで語りたいところだけど、ラストはやっぱり実際に漫画を読んでもらいたい。未読の方はもちろん、すでに読んだ人も、ぜひもう一度最終話を……! 杉元とアシリパの2人だからこそ生まれた物語 最後にちょっとだけ、2人の呼び方が最高すぎるという話も書いておきたい。 杉元は敬意を込めて「アシリパさん」と呼び、アシリパは対等な存在として「杉元」と呼ぶ。アシリパちゃん、杉元さんじゃ絶対に成立しない関係性が、ここにはあるのだ。 この2人の関係性は安易な恋愛感情に根ざしているのではなく、2人の生き方がそのまま反映されている。 もし杉元が、他人より自分を優先させる人間だったら。もしアシリパが、守られることを望み真実から目を背ける人間だったら。そんな2人であれば、こうはならなかった。 杉元とアシリパだからこそ相棒になり、そして『ゴールデンカムイ』の物語が生まれたのだ。いやもう、激熱すぎる。 あー、ここまで書いたらまた読みたくなっちゃったな! というわけでもう一度最初から読み直すわ! みんなも『ゴールデンカムイ』読もうぜ! あ、いろんな変態が出てくるから覚悟しとけよ! ー--------- 雨宮紫苑 ドイツ在住フリーライター。Yahoo!ニュースや東洋経済オンライン、現代ビジネス、ハフィントンポストなどに寄稿。著書に『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)がある。

生でちぎって食べるだけ!植物マニアが勧める添え野菜としての多肉植物

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「生でちぎって食べるだけ!植物マニアが勧める添え野菜としての多肉植物」。まくるめさんが書かれたこの記事では、食べられる多肉植物「グラパラリーフ」への偏愛を語っていただきました! グラパラリーフというものをご存知でしょうか。 私は最近知りました。私の読者の方が、私が多肉植物が好きということで苗をくれたのです。私はそれを自作の栽培設備で育て、いろいろな食べ方を試せるぐらいにまで育ちました。タイトルにもある通り、食べられる多肉植物なのです。 グラパラリーフとはどんな植物か? グラパラリーフはまだ一般的にはあまり知られていない植物かもしれません。食べられる多肉植物はかなり珍しいといえます。 グラプトペタラムというベンケイソウ科の多肉植物を食用に品種改良したものが「グラパラリーフ」という名称で売られています。ベンケイソウ科の多肉植物としては「金のなる木」の通称で知られる花月などが有名です。グラプトペタラムは全体的に丈夫で、さし木などで増やしやすいことが特徴です。グラパラリーフもそうですが、葉ざしでも増やすことができます。葉を土に差しておくと根が出て増えるんですね。 このような特性から、栽培もしやすく、多肉植物初心者にもおすすめです。増えすぎても食べられますし。またカルシウムやマグネシウムが多く、サプリメント的に食べる方もいらっしゃるようです。 基本的な味 さて、味のほうはどうかというと、かなり薄いです。さっぱりしています。苦みもほとんどなく、むしろほかの野菜などと比べても苦みはないほうかもしれません。 食感はリンゴです。シャリっとしています。皮の硬さもなく、万人受けする食感と言えると思います。ほかに食べられる多肉植物としてはアロエなどがありますが、アロエがネトネトして苦いのに比べると、こちらはかなり万人受けするというか、違和感を覚えにくい味です。 また一部の多肉植物は、夜間に二酸化炭素を取り入れて昼に光合成する特性を持っています。なので理屈上は朝方だと酸味が強く、夕方だと酸味は消えているはずです。そう思って朝と夜に食べ比べてみたのですが、あまり感じられませんでした。 生で食べる いろいろな食べ方を試したのですが、生はかなりおすすめです。味のところで述べた通り、もともときわめてさっぱりしていますから、サラダなどに向いているかもしれません。料理の主役というよりは脇役として活躍する位置だと思います。個人的には、料理の写真を撮る時の添え物に最適だと感じました。 グラパラリーフの最大の利点はこれかもしれません。料理の写真を撮る時、添え物に緑が欲しいな、となる時があります。そういう時に葉をとってさっと添えるという使い方です。とくに茎の先端部は葉が花のような形についていて見栄えも楽しめます。 茹でて・炒めて食べる 加熱すると急速にしんなりします。厚みのある葉が透き通って火が通っていくのが分かります。さっと火を通すとインゲンにも似たパリッとした感じになり、炒め物などに入れても違和感がないと思います。 一方で火を通しすぎるとしんなりしすぎて食感が失われてくる気がしますね。あまり火を通しすぎず。料理を火からおろす最後に使うのがいいと感じます。 凍らせて食べる これが個人的には面白いと感じました。グラパラリーフを冷凍庫に入れておくとそのまま凍るのですが、しゃりっとした食感がさらに引き立ちます。 凍らせてもカチコチにはならず、いい感じの食感になります。アイスクリームやシャーベットにのせてもいけると思います。 グラパラリーフの栽培について 最後に栽培法について説明しますが、前述の通り非常に育てやすい種です。環境が合えば放置でもいけるぐらいです。 土は市販の多肉植物の土で充分でしょう。置き場は日当たりで、冬もそのままでいいですが凍結して傷んでしまうようなら屋内にひっこめます。いやあ簡単ですね。 育つとべろべろ伸びてくるので、釣り鉢なんかで育てるとオシャレな感じになると思います。 まとめ 最近はなんでも「映え」を要求される時代です。たとえばただ自炊した飯の写真をネットに乗せるにしても、彩などを気にして映えを狙うのが当たり前のような空気があります。贅沢ですね。 一方で世界情勢は緊張を増しており、食料生産の重要性は増しています。その一方で農業は専門化し、都市型の生活の中で食料生産の現場に関わる機会を持つ人は趣味レベルでもほとんどありません。 そんな状況の中で、自宅でも栽培できるこのグラパラリーフは、「平時は映え、有事は緊急食糧」という役割を果たします。カロリーは控えめですが、水気は多いですから水分補給やミネラル補給などとして飢えをしのぐ一助となるでしょう。 自宅にぜひ一鉢、おすすめです。

予想を裏切り期待は無視する天才作家・永野護と世界でいちばん訓練された読者たち

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「予想を裏切り期待は無視する天才作家・永野護と世界でいちばん訓練された読者たち」。海燕さんが書かれたこの記事では、天才作家・永野護への偏愛を語っていただきました! あらゆる表現を過去にしつづける男 https://www.youtube.com/watch?v=Sp8t0PjTUSA 〈天才〉。 いつの時代も、どこの国でも、創作の世界には群を抜いたクオリティの仕事を軽快に成し遂げ、絶大なる畏怖と絶対の尊敬を込めてそのように呼称される作家がごく少数ながら実在する。『ファイブスター物語』、『ゴティックメード』などの作品で知られる永野護もそのひとりだ。 若くして『機動戦士ガンダム』の「あの」富野由悠季に見出されて『重戦機エルガイム』のキャラクター及びメカニックのデザインを努め、その後は雑誌『ニュータイプ』で『ファイブスター物語』の連載を開始。絢爛と華やかな世界を描き出して各界から注目を浴び、連載30年を超えるいまなお熱狂的なファンからの支持を集めている唯一無二の作家である――と、このように通り一遍の説明をしても、かれの破格の才能と実力について何を説明したことにもならないだろう。 しかし、いったいそのあまりにも独創的な世界をどう解説したら良いものだろう。永野はこのようなあたりまえの言葉ではとても語り切れない「とんでもない」クリエイターなのだ。 たとえば『ファイブスター物語』の副読本である『アウトライン』を読んでみよう。かれはまだ若い頃、このような発言を残している。 永野護というキャラクターデザイナーを起用するときに求められるのはただひとつ。簡単なひと言で済む。 「いままでに誰も見たことのないような、すっごい奴をつくってくれ」 これは僕がかつてとあるアニメ製作会社にいたとき、当時の上司、山浦氏から言われたことばです。 それに対して僕は 「あ、そういうのなら簡単です。いちばん得意ですから」 何という強烈な自負! 傲慢、尊大、平気で偉そうなことをいい放つ奴、と思われるかもしれない。だが、永野はじっさいにその「いままで誰も見たことがないような、すっごい奴」を延々と何十年も生み出しつづけている。 その尽きることを知らぬ絶大なる才能は疑う余地もなく、何より、その年齢が初老に達したいまでも、まだ何とも「鋭くとがった」イマジネーションは少しも衰えていない。 https://twitter.com/PIANONAIQ/status/1196771764237262848 天才でありつづけることは、ただ天才として登場することより遥かにむずかしい。素晴らしいデビュー作で注目を集めながらその後が続かない作家は時々いるものだが、永野は40年近くも過去の自分を乗り越えつづけている「本物中の本物」なのだ。 凄まじいまでに傲慢に思える発言には並はずれた実力の裏打ちがあるのである。少なくとも口先だけの男ではまったくない。 とはいえ、単に長期間にわたって優れた作品を生み出しつづけているクリエイターなら他にもいるだろう。永野の場合、特筆するべき個性はその破天荒な「ロックスピリット」にある。 多くの作家が歳を重ねるにつれ守旧に堕し、自分自身の過去の作品を自己模倣してマンネリに陥っていくのに対し、永野はつねに過去を更新し、超越し、ときには破壊すらして、乗り越えてきた。 ある意味では永野にとって唯一にして最大のライバルとは「過去の自分」にほかならないのかもしれない。 とりあえず現状維持を望む読者の願望は無視 https://twitter.com/relgnadam/status/1831653882986164400 じっさいのところ、ある至高の一点に到達したならその場に留まってほしいと望む読者は少なくない。いつまでも成功した作風にこだわっていてほしい、自分にとって最も気持ちの良い状態をずっと続けてほしい、そういうふうに希望することは、人としてごく自然なことである。 だが、永野はその「自然な期待」の一切を軽々と無視する。かれにとって優先順位の一は何より「いつも最善を更新しつづけること」であるようだ。生きている限りどこまでも続くかとすら思える最新最高表現のアップデート。それは、かれが作家としていまでも若々しくあることの証拠だといっても良い。 むろん、口でいうほど簡単なことであるはずもない。どのような傑作も、それが生み出され世に出たまさにその瞬間から「ただの過去」になるわけで、それを延々と書き換えつづけることは、ほとんど不可能に等しい偉業だといって良いだろう。 ふつう、だれであれ息の長い作家はどこかで表現のピークを迎え、その頂点の高みから少しずつゆっくりと衰えていく。それは作家である以前にひとりの人間である以上、ほとんど避けようもない鉄の摂理であるかとすら思える。 だが、いま、齢60代にして永野デザインの鋭さは増してゆく一方だ。その冒険心の豊かさ、探求心の大きさよ。わたしはかれの「あまりにも天才的な天才」よりもっとその「いつもいつまでも挑戦しつづける開拓精神」にこそリスペクトする。 あるいは不世出の天才キャラクター・デザイナーである永野ですら、いつも成功できているわけではないかもしれない。いくら何でもすべての最新デザインが最高傑作というわけにはいかないだろう。 しかし、超一流(永野の言葉でいう「プリマ・クラッセ」)の条件とは、それがどれほど困難であってもなお、その時点での自分の限界をさらに乗り越え彼方なるフロンティアをめざそうとする炎のチャレンジスピリットにこそあるのだ。永野護の作品が衰えはじめるときが来るとすれば、それはかれの心が老い、挑戦しつづけることに疲れ果ててしまったときのことだろう。 そもそも〈天才〉とは、決してある一点に留まることなく、はてしなく自分自身の最高傑作に挑みつづける異常に誇り高い人々にのみふさわしい黄金の桂冠である。 並の作家がその一生を完璧な作品をめざして試行錯誤しながらついに最高傑作に達せず終わるのに対し、天才と呼ばれる人たちは一様に最初の時点で満点の作品を生み出してしまい、そこからキャリアをスタートする。この凡人の常識をあっさりと無視する破格のルートこそが超絶的な才能の証明なのだ。 https://twitter.com/26pIsdlxgMVFYi3/status/1807036200831902132 永野の場合もやはりそうで、かれは『ファイブスター物語』の最初期にナイト・オブ・ゴールド、LEDミラージュ、バッシュ・ザ・ブラックナイトといった最高傑作デザインを生み出している。そして、その後はそれらを延々と「改良」しつづけているのである。 永野のキャリアにおける最大の仕事であり、ほとんどかれの内的世界そのものなのではないかとすら思われる長大な『ファイブスター物語』は、この「改良」の積み重ねそのものである。 かれは同じデザインを長く使いつづけることを良しとしない。キャラクターにせよ、ロボットにせよ、新しく出てくるときには以前とはまた違う格好をしている。さらにいうなら、幾千年に及ぶ冒険と闘争の舞台となるジョーカー太陽星団そのものが「改良」されつづけている。 そこにはいつまでも「もっと!」と求めつづける永野の精神性が見て取れる。もっと美しく、もっとかっこ良く、もっと素晴らしく、もっと力づよく、もっと、もっと、もっと、もっと、もっと! あたりまえの作家ならこのような真似をしていてはただ疲弊し果てるだけに終わることだろう。世にも素晴らしい何かを生み出すその端から「もっと」といい出すその貪欲さ! その意味でもかれはやはりスペシャルなクリエイターとしかいいようがない。 https://twitter.com/nobemaku/status/1806286006515327306 いままでの設定、デザイン全部なし! https://www.youtube.com/watch?v=QU5pMBLfobk その「際限なく自分自身に挑みつづける挑戦の気概」が最も端的にあらわれたのが、『ファイブスター物語』13巻での設定一新である。なんと、このとき、永野はその時点でそれまで長々と積み重ねた作中のロボットに関する設定をことごとく捨て去り、〈モーターヘッド〉と呼ばれていたそれらのマシンをすべて〈ゴティックメード〉に変えてしまったのだった! こう書いても、多くの人はどういうことなのかわからないかもしれない。これは、単行本13巻を機に「作中の世界がよく似ていながらまったく異なる世界へと取り換えられた」と考えるとわかりやすい。 それまでの幾多の美しい〈モーターヘッド〉たちは、その面影をかすかに残しながらも基本的にはまったく異なる〈ゴティックメード〉になり、ドラゴンと呼ばれていた超次元の存在たちはなぞめいた〈セントリー〉になり、妖精のような人工生命体ファティマたちは〈オートマチック・フラワーズ〉という別名で呼ばれることとなった。 いってしまえば、何十年もかけて営々と積み重ねてきた設定とデザインを、あっさりと投げ捨て「最初からやり直し!」と宣言したようなもの。常識的に考えれば、ありえない、あってはならないことだろう。 それぞれのモーターヘッドには熱心なファンがたくさんいるのだ。ふつうに捉えるなら、これは暴挙である。いったい、連載の途中でここまで極端な設定一新が行われた作品がかつてあっただろうか。過去の財産に執着していればこのような真似ができるはずもない。どこまでもどこまでも「現在」にこそ集中する永野護をして、初めて成し遂げられた「暴挙にして快挙」であるといって良い。 もっとも、いたって当然のことながら、この「事件」は賛否両論を生んだ。このあたりから読者をやめてしまった人も少なくない。それも無理はない。このような、リファインという次元に終わらない「とんでもない」冒険を経てそれでもついていく読者のほうがおかしいのかもしれない。 だが、おかしくても狂っていても良い。少なくともわたしはこれからも『ファイブスター物語』を楽しみに読みつづけるつもりだし、永野護のこの「はてしなく己の限界を超えていく挑戦と超克のスピリット」を尊敬してやまない。かれにとって、ある表現の完成は、次なる表現のスタートでしかないようだ。 だから『ファイブスター物語』はいつまで経っても古くならない。少なくともその最先端の部分は、いつも時代の一歩先を進んでいるように見える。いまでも、なお、永野の最新傑作ロボットが発表されるとき、全世界の全ロボットが一瞬にして過去と化す。これは常識的な想像以上に尋常ではないことだ。 https://twitter.com/kaeruko879/status/1795415351045533917 もっとファンの声に応えるべきだと考える人もいるだろう。せっかく期待してくれている人たちがいるのだから、その声を無視してはならないと。そうかもしれない。しかし、だれが読者に媚びる永野護など見たいだろうか。 そもそも、世の中には読者の欲望にアジャストしてくれる作家や作品が山ほどあるのだから、そういうものを見たい人はそういう作品だけを消費していれば良いのではないか。あえて『ファイブスター物語』などという劇毒を口にする必要もない。この五つの星から成る太陽星団を舞台にした物語は、いつも新陳代謝をくりかえし、決して読者の思い通りになったりはしないのである。 そういう作風をときに苦笑しつつもことさらに問題視しない「世界でいちばん訓練された読者たち」こそがいまでも『ファイブスター物語』を読みつづけている。あまりにも非常識な話。暴走する教祖と狂った信者たち。そうだろうか。だが、そもそもいわゆる「永野デザイン」は、そのすべてがあたりまえの常識など遥か遠くに置き去りにしてきたものばかりである。 きっと永野護はどこまでいっても自分の作品に満足し切ることがないのだろう。だから、営々と延々と作品を更新しつづける。わたしはその姿勢、その作家としてのありようにこそ感動する。 「もっと安全そうに見えるルート」をあっさりと無視し、「停滞を求める読者の切ない期待」を当然のように裏切り、ただどこまでも自分の理想だけを追い求めつづける美しいほどピュアな表現姿勢。それが、わたしの心をつよく揺り動かすのだ。 何という稀有な作家と同時代を生きているのだろう。『ファイブスター物語』をリアルタイムに読めることは最高の幸せだ。あしたの永野護は、きょうのかれよりさらに凄い。そう確信できる作家とともにあることが、何とも嬉しい。わたしはほんとうにそう思う。 まさにただ者ではない作家であり、作品である。その連載が続くかぎり、わたしはこの不世出の「お伽噺」を追いかけつづけることだろう。星団暦7777年、人跡未踏のなぞの惑星フォーチュンで光の神アマテラスと妻ラキシスが再会を遂げ、聖なる婚姻を迎える、そのときまで。

日本最大級のアイドルオーディション・日プ脱落組『IS:SUE』への深く強い愛

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「日本最大級のアイドルオーディション・日プ脱落組『IS:SUE』への深く強い愛」。雨宮紫苑さんが書かれたこの記事では、アイドルグル―プ『IS:SUE』への偏愛を語っていただきました! 「最終11位は 獲得票数55万2603票。――加藤心」 木村カエラさんのこの一言で、彼女たちの夢ははかなくも砕け散った。 オーディション番組『PRODUCE 101 JAPAN』(以下「日プ」)のシーズン3。視聴者による投票で最終順位11位までがデビューできる一大プロジェクト。 2023年12月16日、運命の最終順位発表式。 呼ばれた11人のなかに、推しである彼女たちの名前はなかった。 最終順位発表式を見届けたわたしは、推しが脱落したショックで、数日間抜け殻のようになっていた。 デビューを決めたメンバーがME:I(ミーアイ)として活躍するのを横目に見つつ、「でも推していた子はいないんだ……」と胸がチクチク痛む日々。もう彼女たちを見ることはできないの……? ーーしかしその2か月後。 わたしの推しである梨乃ちゃんと優希ちゃんは、スポットライトを浴びて、割れんばかりの歓声のなか、堂々と舞台に立っていた。 今回ははデビューしたての4人組グループ『IS:SUE』(イッシュ)の魅力について、丁寧に語っていきたい(別名:布教)。 IS:SUEを推したくなる理由 1:一度敗れたからこそ……夢を叶えた姿に勇気をもらえる https://twitter.com/issue_is_coming/status/1803765007957864736 2024年6月19日。 菜乃ちゃん、梨乃ちゃん、優希ちゃん、凛ちゃんの日プ脱落組4人が、『IS:SUE』としてデビューし、ついに夢を叶えた。 いやもうね、4人が笑顔で舞台に立ってるだけで大泣きしちゃったよ。この日を待ってたよ……。おめでとう、ありがとうーー。 改めて考えると、プロデュース番組って、とんでもなく過酷な世界だ。 20歳やそこらの女の子たちが何万人もの人に評価され、順位をつけられていく。そのうえで彼女たちは、「選ばれなかった」。 それでも諦めずに挑戦を続けるのには、いったいどれほどの苦悩と葛藤があったんだろう。それを思うだけでもう5回くらい泣ける。 オーディション番組の脱落者が派生グループでデビューするのは珍しくない。が、そのなかでもIS:SUEほど「ドラマチック」なグループはなかなかないと思う。 なぜなら11位までデビューできるプロジェクトで、最終順位が12位、13位、15位、16位のメンバーで構成されているから。 実はこの記事を書くにあたり、よくニュースで使われる「日プ出身メンバー」と書くかどうか、少し迷ったものの、よりネガティブである「脱落組」という言葉を選んだ。 それは、最終メンバーまで残りながらも脱落したこの4人だからこそ作り出せる物語があると、心から信じているから。 わたしは彼女たちみたいに、人生を賭けて夢を追うなんてことはできない。でも走り続ける彼女たちを追いかけることで、その夢のカケラをほんのちょっと分けてもらえる。 そしてそのカケラを握りしめると、「自分ももうちょっと頑張ろう」と勇気がわいてくるのだ。いまうまくいかなくても、諦めなければきっと明るい未来が待っている、と。 2:少数精鋭、みんなカメラに映る! https://twitter.com/issue_is_coming/status/1805390526700831202 そしてIS:SUEが活動しはじめてから、このグループの強みを新たに発見した。 そう、みんなカメラに映るのである!! わたしはこれまで、ハロプロ系→AKB系→坂道系→ハロプロ系、といろんなグループを渡り歩いてきたけれど、(ベリキューを除き)どのグループも大所帯だ。 人気メンと干されメンで待遇がちがうのは当たり前。コメントも人気メンバーだけで、歌割やカメラ割も不平等。メンバー入れ替えが激しく、ちょっと目を離すと知らないメンバーだらけ。そんな場面にもよく出くわす。 しかしIS:SUEは4人組なので、そういった格差がない。みんなちゃんとカメラに映るし、歌うし、4人順番にコメントする。 そしてなにより、メンバーをすぐ覚えられる! これは意外と大事な要素で、人気商売である以上、「覚えてもらう」ことは必須だ。4人という少人数で各メンバーがしっかり映るグループは、新規として入りやすい。 わたし、少人数グル推したことなかったけど、めっちゃいいじゃん……!! しかもメンバーのパーソナルカラーが春夏秋冬できれいに分かれてるんだって。なにそれ運命か? 3:とにかく仲がいい!協調性があるしっかり者たち https://twitter.com/issue_is_coming/status/1809905201689841731 ぶっちゃけわたしは、アイドルは性格よりもパフォーマンスだと思っている。 さすがにイジメっ子となれば話は別だが、多少性格に難があってもいい、なんならそういう癖がある子だからこそ舞台で輝ける、くらいの認識だ。 ……なのだが、IS:SUEのメンバーからはふわ~っと「いい子感」が漂っていて、そういう多幸感っていいなぁと感じるようになった。 仲が悪いメンバーで四六時中一緒にいても、いいものができるわけがないもの。どうせなら推しには仲良くキャッキャウフフしてほしいよ。うん。 そういえば、デビューしたらやりたいことのインタビューで、菜乃ちゃんは「これからずっと一緒にお仕事する仲間と仲を深めたい」、優希ちゃんは「長続きするグループに1番大事なのはメンバーの仲の良さ」と言っていた。 梨乃ちゃんも凛ちゃんもリーダーを任されていたし、4人ともしっかりして協調性が高い子たちなんだろう。 ステージ上ではゴリゴリのガルクラ曲をバッキバキに歌って踊ってるけど、舞台裏ではふわふわ仲良しのいい子たち。どう? 推したくなりませんか!? みんな推したくなる!各メンバーの魅力 1:ビジュアルクイーン、最年長セクシーお姉さん!菜乃(NANO) この投稿をInstagramで見る IS:SUE(@issue_is_coming)がシェアした投稿 とりあえず、なにも聞かずにこれを見てくれ。 https://www.youtube.com/watch?v=ASinP_dvELw これは日プのなかでもトップクラスにバズった伝説のステージ、『TOXIC』。そこでセンターを務めてぶちかましたのが、菜乃ちゃんなのだ! セクシーっていうかもう……エロい……。ちょっとハスキーな声とアンニュイな流し目、この「悪いお姉さん」感がたまらない!! 菜乃ちゃんは日プガールズ内の投票で「ビジュアルクイーン」に輝いたメンバー。さすがのビジュ。 ちなみにお姉さんオーラ全開の菜乃ちゃんですが、舞台を降りると陽キャというか、メンタルが強いというか、カラッとしてる感じがすっごい好きなんですよね。 ポジションバトルでメンバー全員がセンターに名乗りを上げたとき、「いいね! モチベ高い!」と鼓舞し、センター決め投票で全員が自分に入れて気まずい雰囲気になるも、「こうでなくっちゃいいもの作れないから!」と明るく振る舞うところとか、すごく良かった。 みんなが真剣に話し合ってるなか寝ちゃったことを、「ごめんなさい☆」って笑顔で謝ったり。自分がセンターの曲で他の子が褒められてるのを聞いて不安になるも、「前向きに頑張る」と言ったり。 舞台上のセクシーお姉さんももちろん好きだけど、どんな状況でもメソメソせずに明るく振る舞えるその強さが、菜乃ちゃんの魅力なんだよ……!! 2:なんでもできるオールラウンダー!梨乃(RINO) この投稿をInstagramで見る IS:SUE(@issue_is_coming)がシェアした投稿 梨乃ちゃんは本当に、なんでもできる人。ザ・オールラウンダー。 もともと有名ダンススクールに通っていたことからダンスは正確で癖がなく、ダンスメンか?と思いきや歌もどんとこい。 ポジションバトルでは宇多田ヒカルの『First love』を熱唱し、歌に自信がある他メンバーを抑えて、グループ内1位になった実力者なのだ。 そしてなにより、性格がいい!! たとえばグループバトルで、センターの萌ちゃんがトレーナーに「目立ってない。センター変えたほうがいい」と言われたとき。 レッスン直後、萌ちゃんが「思ってることあれば言って……」と涙ながらにメンバーに意見を求めると、梨乃ちゃんが真っ先に「センターはそのまま萌ちゃんでいいと思う」って言うんですよ。センター奪えるチャンスなのに、いい子すぎんか? https://www.youtube.com/watch?v=eFT-HYLtFCo&list=PL3fCPdnAFT0b30uCDXRk2UcXnNqB9dbyc&index=11 実際のステージでも梨乃ちゃんはやっぱり安定していて、歌もダンスも高水準でぴったりリズムに合ってる。さすがすぎ。 でもなんでもできるがゆえに、器用貧乏というか、いまいち目立ちきれないところがあって……。オーディション番組って、下手な子が急成長するとか、人間関係で対立しつつも苦労して作り上げるとか、そういうストーリーが好まれるから。 結果、11位までデビューできるオーディションで、12位で脱落。 みんな梨乃ちゃんの良さには気づいてるんだけれど、爪痕を残したメンバーのほうがやっぱり強くてさ……。 でもね、梨乃ちゃんがいるチームはパフォーマンスが安定していて、なによりいつも雰囲気がいいんだ。こういう子がチームには絶対に必要なんだよ!! 絶対に!! 3:スタイルお化けのクール美人!優希(YUUKI) この投稿をInstagramで見る IS:SUE(@issue_is_coming)がシェアした投稿 スタイル抜群長身黒髪ショートという、女心をわしづかみにする要素をギュッと詰め込んだ罪な女。そのうえ一般受験で早稲田大学に入った才女でもある。 ……なんだけど、毎グループでセンターに名乗りを上げるも一度も選ばれず。20位前後の順位が多く、今一歩デビュー圏内に届かないというポジション。 それでも中間順位発表式では、いつもしっかりと前を見据えて、「絶対デビューします」って言うんだよ。きっと不安でいっぱいだろうに、それを言ってくれるんだよ。 そのまっすぐで努力家なところに胸を打たれてさ……。報われてほしいって心から思ったんだ。「優しい希望」って、本当にいい名前だよね……。 TOXICのパフォも最高だったけど、優希ちゃんといったら『RUN RUN』も外せない。 『RUN RUN』は、ポジション(ダンス)内で1位をとれば2倍のベネフィット(追加票)をもらえる代わりに、1位をとれなかったら全員が0票になるリスキーな一発逆転枠。 そしてそれを自ら選ぶのが、優希という子なんですよ!! 4:最年少、清楚美人×少年ボイス!凛(RIN) この投稿をInstagramで見る IS:SUE(@issue_is_coming)がシェアした投稿 凛ちゃんが注目されたのは、グループバトルのとき。『Body&Soul』を2組に分かれてパフォーマンスし、優れていたチームが票を獲得するルールだ。 凛ちゃんの相手チームはいわゆるアベンジャーズで、人気が高く注目されているメンバーが多かった(6人中4人がその後ME:Iとしてデビュー)。 ただでさえ勝つのが難しい状況のなか、凛ちゃんは32位という危ない順位で、そのうえリーダーを務めていた。しかも、チーム6人中4人が体調不良でまともに練習ができなくなってしまう。 そこで心境を聞かれたとき、涙を浮かべながらも声が震えないように必死で自分を奮い立たせ、「不安も焦りもあるけど私たちが今できることをやっておかないと。バトルになるくらい、しっかり完成度を高めたい」って言うんですよ。 なにこの根性ガール。透明感あふれる美人さんかと思いきや、そんな熱い気持ちを隠し持ってたの!? いや~やっぱりドルオタはそういうストーリー好きだよね。凛ちゃんその後順位が爆上がりして、一気にデビュー圏内までいったもん。 https://www.youtube.com/watch?v=V90f90Ws22I しかもサビ前、「傷つくことも増えてくけれど 最後は自分には負けたくない」って歌うのもう主人公じゃん……。 でさ、色白ですっごい整ったビジュアルで澄んだ目をしてる凛ちゃん、実は声が少年っぽいというか、芯があってよく通る中音なんですよ。そのうえ最年少マンネ! 設定盛りすぎ、やっぱ主人公だろ! あなたもIS:SUEを応援するREBORNになろう! https://twitter.com/issue_is_coming/status/1803401091230609514 4人とも、理想は最終順位11位以内に入ってME:Iとしてデビューすることだったかもしれない。それが叶わなかったとき、心の底から泣いて、悔しくて、苦しかったと思う。 でもね、こんな明るい未来が待ってるんだよ。諦めずに夢を追っていたら、そんなあなたを見つけてくれる人が絶対にいるんだよ。 これまでたくさん泣いたこの子たちには、これからたくさんの喜びの涙を流してほしい。もっともっと大きな夢を叶えていってほしい。 ……ねぇ、ここまで読んでくれたあなたはもう、IS:SUEが好きになっちゃったでしょ? 応援したくなっちゃったでしょ? じゃあ一緒に応援しようよ。この4人の夢の続きを、一緒に見ていこうよ。REBORN(ファンネーム)になろうよ。 とりあえず、デビュー曲のMV置いとくね。ぜひぜひ見てみてね。 https://www.youtube.com/watch?v=OTKY-xljazo ー--------- 雨宮紫苑 ドイツ在住フリーライター。Yahoo!ニュースや東洋経済オンライン、現代ビジネス、ハフィントンポストなどに寄稿。著書に『日本人とドイツ人 比べてみたらどっちもどっち』(新潮新書)がある。

イギリスに6年住んだ人間が語る、イギリスのご飯がマズい理由、そして愛おしい理由

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「イギリスに6年住んだ人間が語る、イギリスのご飯がマズい理由、そして愛おしい理由」。トイアンナさんが書かれたこの記事では、イギリスのご飯への偏愛を語っていただきました! イギリスのご飯は、まずい。これは当時者であるイギリス人もわかっていて、鉄板自虐ネタに使われるくらいだ。ただ、日本人には「なぜまずいか」がわからない。 なぜなら、日本のご飯が美味しすぎるからである。私がチェーン店で一番好きなのは焼き鳥の「てけてけ」なのだが、串1本109円(税込)からで、ちゃんと美味しい。イカれてる。 次に好きな日高屋の餃子は、2024年にもなって290円(税込)である。どうしたの? 普段からこんなに手軽に美味しいものを食べている人間が、イギリスの「マズい」を理解できるわけがない。 イギリスのご飯はマズいのではなく「味がない」 イギリスのご飯といえば、必ず登場するのがこの「ブリティッシュ・ブレックファースト」である。目玉焼き、ソーセージあるいはローストした肉、ローストトマトとマッシュルーム、そして豆。これだけ多品目の朝ご飯セットなのに、味がほとんどしない。せいぜい、目玉焼きの下に敷いてある豆のトマト味が感じられる程度だ。 これは、イギリス人が「塩をふらない」という文化に基づいている。料理で塩を使わないのだ。かつては、代わりにテーブルへ塩が置いてあった。つまり、「シェフが味を決めるなんてとんでもない。あなたが好きなだけ塩を振りなさい」というわけだ。多様性ある提案である。 ところが、これが全料理に適用されてしまうのだから、話は別だ。イギリス人が料理屋を開くと、メキシコ料理だろうが、イタリア料理だろうが、塩をふらないのである。そして、客のテーブルには塩が置かれていない。つまり、単にマズイご飯になってしまうわけだ。 では、「何も考えずに手持ちの塩でもふればいいじゃないか」と思うだろう。イギリスの料理には、ロシアンルーレットのように、「塩がキマりすぎた飯」が混ざっている。ひとくち食べて「もう無理です」となるくらいしょっぱいご飯か、塩分ゼロのご飯しかない。これが、イギリスの「マズさ」の正体である。 イギリス料理は、マズくてもインスタ映えする方へ舵をきった やっかいなことに、最近のイギリス料理はフォトジェニックだ。かつてのイギリス飯は、「おらよっ!」 と、ドカ盛りした味なしの茹でニンジンやブロッコリーの山だった。イギリスもさすがにそれではグルメな移民が増えるポストEU時代を生き残れないと判断したのか、「すてきな」料理が増えたのだ。 ここでいう「すてきな」とは、外見がインスタ映えすることを指す。つまり、味は変わることなく、どんどんおしゃれに洗練されていったのである。 たとえば、上の写真は典型的な「今のブリティッシュ飯」である。なんだかおしゃれで健康そうなメニューだが、左はボソボソのパン。右はビーツという野菜に、これまたボソボソのパン粉らしきものを乗せた「だけ」である。つまり、味はない。かいわれ大根に見えるトッピングも、これまた味がない草である。ヘルシーかもしれないが、心がアンヘルシーになりそうな味である。 さらに、内装にもこだわるのがブリティッシュ流である。 たとえば、ロンドンにはこんなレストランがゴロゴロしている。 おしゃれ! 他にも、こんなこじゃれた照明をほどこした内装のカフェを、よく見かける。 ムーディな照明がいい感じ。 普通のカフェだって、こんなにかわいい。 ……なのにマズいのだ。内装がおしゃれですてきだからこそ、味とのギャップで深い失望を味わうのは私だけだろうか。 さらに、「クラブか???」と思うくらい、音楽をドゥンドゥン鳴らしているレストランも多い。うるさすぎて、料理に集中できない。家賃が高いロンドンですら席と席の間を広く取る店が多いのだから、隣の客の声だって絶対に聞こえないし、安心して静かなBGMにしてほしい。 これは、イギリスで大人気の飲茶レストラン「Yauatcha(ヤウアチャ)」のインスタグラムだ。美味しそうに見せることよりも、おしゃれであることがロンドンのレストランでいかに重要か、垣間見れる写真群となっている。 ロンドンのこのお店は、香港の方が経営されているのでちゃんと美味しい。それでも、味より映えに写真を振り切らないと、店は潰れてしまうのである。日本にも支店「ヤウメイ」があるので、ぜひ行ってみてほしい。美味しいので。 イギリスのご飯は美味しくなったという俗説 私がイギリスに住んでいた計6年の間、「イギリスのご飯は美味しくなった」という話を多数聞いた。 嘘である。 まず、イギリスにももともと、美味しいレストランはある。中国、インド、そしてヨーロッパ移民が多数流入し「自分と同じ移民向けに作ったレストラン」はどれも美味しい。イギリス人向けに作った店は、どれもまずくなる。これは昔から同じである。 そして、美味しい店はどれも高い。日本円で15,000円/名くらいは払わないと、お話にならない。これは、ポンド円が150円くらいだったときの話なので、今なら18,900円くらいになる。恐ろしい。イギリスの物価が日本より高いとはいえ、さすがに普段の食費でこんなふうにはならない。 イギリスでは、「まあまあ美味しい」に必要な対価が高すぎるのだ。 イギリスの最低賃金は2,173円なので、美味しいご飯にかかる費用とのギャップが激しすぎる。高級食材を使っているとも思えない。おそらく、レストランの映えを重視するあまり、凝った内装の施工にお金は消えているのだろう。ああんもうやだ……。 建築学科の方は、ロンドンへ留学するだけで毎日内装を勉強できて楽しいのかもしれない。なにせ、1店舗にかかっているであろう内装費が、どう考えても数千万円規模だからである。 たとえば、こちらは「一風堂」のロンドン市内にある店舗の内装だ。あまりにもおしゃれ。確かに一風堂はロンドンで随一の美味しいラーメン屋だが、ヒットしたのはおそらくそれが理由ではない。映えるからである。それを熟知した内装と商品写真を展開できた一風堂には、優れたマーケターがいたに違いない。 強みを活かす方向で成功していくロンドンのレストラン 「強みを伸ばす」これは、経営やマーケティングにおける王道の戦略だ。そして、イギリスのご飯はマズい。背景には産業革命の時代に、労働人口を都心部に集約させた結果、美味しい地方料理の文化が消えてしまった歴史がある。つまり、これからイギリスのご飯を劇的に美味しくするのは難しい。 ならば、映える方がいいではないか。誰が「レストランのご飯は美味しくないといけない」と決めたのか? この問いを最初に立てたイギリス人が、きっと内装へ力を入れて成功したのだろう。住んでいる日本人からすればたまったものではない。だがしかし、確かにそれはイギリスのレストランにおける成功戦略だったのではないか。 もしかしたら、ご飯が美味しくないといけないと思い込んでいるのは、私たちだけかもしれない。だから、これだけマズイと罵りながらも、私はイギリス料理とレストランを、嫌いになれないのである。

『めぞん一刻』ヒロインの響子さんが僕をダメ人間にしてくれた。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「『めぞん一刻』ヒロインの響子さんが僕をダメ人間にしてくれた。」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、『めぞん一刻』音無響子さんへの偏愛を語っていただきました!   『めぞん一刻』とは近所の床屋で出会った。 こんにちは。僕はフミコフミオ、神奈川県の食品会社で働く五十歳の営業部長だ。突然だが、1980年代にビックコミックスピリッツで連載された高橋留美子先生の大人気作『めぞん一刻』という作品がある。主人公・五代裕作という青年(浪人〜大学生〜社会人)が音無響子というアパート管理人といろいろあって結ばれるというラブコメ漫画だ。 僕は、『めぞん一刻』で人生が変わった。出会いは小学4年〜5年生のときだ。『めぞん一刻』は大人の世界を垣間見せてくれ、当時テレビアニメが放送されて人気絶頂だった『うる星やつら』と共に、高橋留美子先生の作品群『るーみっくわーるど』への扉を開いてくれた。しかし、『めぞん一刻』は内容が1980年代っぽさ全開のせいか、取り上げられる機会が少なく、最近アニメがリメイクされたり、頻繁にコスプレのネタ(ラムちゃん)になったりしている『うる星やつら』に比べると、現代の若い人たちには認知されていないように見える。残念でならない。『めぞん一刻』を知らないことは人生にとって大きな損失といっても過言ではない、と僕は思う。 『めぞん一刻』との出会いは近所の床屋だった。床屋で順番を待っているとき、僕は漫画の単行本を読んでいた(何を読んでいたのかは記憶にない)。その単行本のカバーにビックコミック単行本の既刊が紹介されていて、その中に『めぞん一刻』というタイトルを見つけた。作者はあの『うる星やつら』の高橋留美子先生。小学生にとって『めぞん一刻』という文字が意味するものがまったくわからず、「あの『うる星やつら』の作者が描いている『めぞんなんたら』という漫画はどういう漫画なのだろう?」と好奇心が刺激されたのである。床屋から書店へ直行して手にとったのが『めぞん一刻』の単行本第6巻で、ページをひらいた瞬間に飛び出してきた音無響子さんの色気にヤラれてしまった。 余談だが、このとき既刊紹介されていて好奇心が刺激されたタイトルがもうひとつある。『美味しんぼ』だ。実は私はそのとき『おいしんぼ』ではなく『びみしんぼ』と読んでしまって、「びみしんぼとは何の漫画なのだろう?」と思ったのも至高の思い出。何はともあれ、僕はこうして『めぞん一刻』と出会ってしまったのである。 『うる星』『めぞん』の同時連載は、『ワンピース』と『鬼滅の刃』を同時に週刊連載しているようなもの。 さて、高橋留美子先生はレジェンド級の漫画家で40年以上のキャリアを持っている、超有名だけれども、知らない人のために再確認の意味を込めて、どれだけ先生が凄いのか簡単に説明したい。 高橋留美子先生は、1980年代に『うる星やつら』と『めぞん一刻』という二大名作を描いて人気漫画家となり、その後『らんま1/2』『犬夜叉』『境界のRINNE』『MAO』と約40年間、ほぼ連続して長期連載作品を描き続けている。単発でヒット作を出すのさえ難しいのに、映像化されるレベルの作品を連発しているのだ。凄すぎる。 さらに『うる星やつら』と『めぞん一刻』は、『サンデー』と『ビッグコミックスピリッツ』という青年誌で同時期に連載されていた。そのうえ『めぞん一刻』の後期は『スピリッツ』が隔週から週刊誌に変わったため、週刊連載を二作、どちらも伝説級の作品を同時に描いていたことになる。ここまでいくと凄すぎるというか怪物級である。そのうえで『人魚の森』などのシリーズ短編や『炎トリッパ―』『スリム観音』のような短編を描いているのだから言葉を失ってしまう。 わかりやすくたとえれば、『ドラゴンボール』と『アラレちゃん』、『ワンピース』と『鬼滅の刃』を同時に連載しているようなものである。大げさではない。当時を知っている人ならわかる。それくらいものすごい仕事をしていたレジェンドなのである。その合間に連作シリーズの『人魚』シリーズを描いているのだからね…。 今年4月に放送されたNHKの仕事の流儀スペシャル『 世界を、子どもの目で見てみたら 〜漫画家 青山剛昌〜』のなかでこれまた『名探偵コナン』のレジェンド級漫画家の青山先生が、「週刊少年サンデーのトップはあだち充先生(『タッチ』)と高橋留美子先生です」とはっきり発言していたのが偉大さを証明している。個人的には、当番組内であだち先生のお元気な姿を見せてもらえたのが嬉しかった。 高橋留美子先生のシビアなお言葉に萌える。 高橋先生は、インタビューや発言から「漫画好き」であるとともに、最新の漫画作品まで読んでそこから吸収しているらしい。実績と才能が最高クラスの人が、努力と研究を惜しまないのだからたまらない。追いつけない。日々、「仕事をどう楽にこなそう?」「FIREしたい!」「宝くじ当たらないかな…」などと、ぼんやり考えているばかりで行動しない僕ら凡人は、先生を一ミリでも見習ったほうがいい。 高橋先生の発言で僕が好きなのは、「体験が多い方がいいなんていうのは、凡人の思い上がり。体験しなきゃ傑作描けない人は、才能がないんだって(笑)」。厳しい言葉だけれど、いろいろなとらえ方ができる名言だと思う。高橋先生だから言えると言ってしまえばそこまでかもしれない。でも、僕は、これを経験がなくても努力次第でなんとかなる、やってみれば才能がついてくる、という人生のエールだととらえている。 『めぞん一刻』を描いていた当時、高橋先生は二十代だった。作中、80年代の風俗業に精通しているような生々しい描写があったけれども、あれがすべて想像力の産物だったのかと思うと「すげえ…」としか思えない。大人になって大人の世界を知ってから振り返ると、先生の想像力と作品への落とし込み方がエグく、驚くばかりだ。そして、下ネタが連発してもエピソードの終わりが悪い気持ちにならないのがとても心地よくて、大人の世界を描いた作品でありながら子供でも楽しめる作品になっていた。だから小学生の僕はハマったのだ。 あの頃、響子さんに恋をしたのは僕だけじゃないはず。 と、高橋先生の凄さというのは日本人の多くが知っていることであるので今さら僕みたいな底辺会社員があれこれ語るのは、漫画専門家や漫画マニアに任せて、このへんにしておいて、ここからは『めぞん一刻』が僕という人間にどれだけ大きな影響を与え、ボンクラにしたのか、プライベートなハマり具合について語りたい。 ひとことでいってしまうと小学生から中学生にかけての僕は、主人公五代君が「響子さん好きじゃあ」と叫んだように、ヒロイン音無響子にノックアウトされてしまったのだ。響子さんは現在の漫画のヒロインでいうと『推しの子』の「アイ」、『鬼滅の刃』の「竈門禰豆子」、『ワンピース』の「ナミ」になるのかな。 1985年、僕が小学6年生の時点で、原作コミックにおいて響子さんが26歳と答えるシーンがあった。僕からみれば大人の女性である。大人で嫉妬深くて面倒くさい性格をしている26歳のアパート管理人の未亡人。そして、人妻。 小学生にとっては未知との遭遇な属性満載の女性である。刺激が強く、罪深い人である。『うる星やつら』のラムは虎柄のビキニを着た宇宙人という子供でもフィクションとわかるキャラクターであったのに対して、響子さんは子供から見れば、大人になったら会えそうなキャラクターに見えたのだ。それが純粋な小学生をボンクラ青年へ落とすきっかけとなった。 年上女性。未亡人。管理人。人妻。そういったワードを見聞きするたびに心の深い部分が共鳴して正常な判断ができなくなる人間になってしまった。結婚するときに処分した「未亡人もの」「人妻もの」成人向けDVDの枚数がその証拠である。また、原作後半に登場する響子さんのライバル兼盛り立て役、女子高生「八神いぶき」も魅力的で僕に「女子高生は素晴らしい」という印象を持たせた。八神の存在によって、高校生になれば明るい毎日が到来すると信じていた僕は、己に訪れた暗黒高校時代に絶望するのであった。 響子さんが好きすぎるあまり、彼女がいる世界にのめり込みたくて舞台である一刻館の図面を描いて、ボール紙で模型を自作したこともある。1階と2階を結ぶ階段と2階階段そばにあるベランダの構造が原作だとよくわからず、頓挫してしまったけど。主人公五代くんの生活が羨ましすぎて、大学入学したときに人形劇サークル(児童文化研究会)に入ったりもした。由緒正しい公式サークルだった。入った後に五代君が響子さんと出会ったのは人形劇サークルではなかったことに気づいた。正常な判断力を喪失していた。響子さんが悪い。 どれもこれも響子さん的な存在に近づくためのアクションだった。原作中に1977年(昭和52年)の響子さんの卒業アルバムが出てきて生年が1959年であることを知った僕(1974年早生まれ)は、本気で「14歳差くらいならいけるやん」と思っていたのである。 『めぞん一刻』をきっかけに他の漫画やアニメにも興味をもつようになっていった。もともとガンダムなどのロボットものやタイムボカンシリーズといったアニメは観ていたけれども、少女アニメにも手を出すようになった。第二の響子さんを探し求めるためだった。人生が狂った。音無響子がラムちゃんと同じような現実には絶対に存在しないキャラクターだと気づいたのは、原作終了時の響子さんの年齢(27〜28歳)になったときである。 いや、響子さんみたいな人物が存在しないことなど薄々気づいてはいたのだけれども、自分がその年齢になって完全に夢の終わりを悟ったのだ。僕が28歳、2002年のことだ。そのとき『めぞん一刻』と出会って18年が経っていた。僕は、音無響子とセイラ・マスのポスターや、綾波レイと惣流・アスカ・ラングレーのフィギュアに囲まれた汚い部屋で、完全なボンクラに仕上がっていた。 めぞん一刻の余波で斉藤由貴にもハマってしまった。 https://www.youtube.com/watch?v=6PO7saqBitM めぞん一刻の影響で一時期斉藤由貴にもはまってしまった。アニメ版のオープニングソング『悲しみよこんにちは』を歌唱していたのが斉藤由貴だったのだ。今の若い人は斉藤由貴といったらドラマ『遺留捜査』に出てくるおばさん程度の印象しかないかもしれないが、1980年代後半の斉藤由貴は女神だった。清純かつ純朴な美人かつグラマラスなグラビアに完全にノックアウトされた。当時ポニーキャニオンから彼女のシングルは3月21日、6月21日、9月21日、12月21日の3ケ月ごとにリリースされていたのだけれども、僕は発売日にレコード屋で必ずゲットしていた。斉藤由貴が宣伝していた『青春という名のラーメン』を愛した。ロックとクラシックを愛する僕が、唯一愛したアイドルが斉藤由貴だった。 何年かたって彼女の起こしたいくつかのスキャンダルで彼女への愛は醒めてしまったが、『悲しみよこんにちは』は『めぞん一刻』の世界観を見事に再現した名曲であることは40年近くたった変わらないし、『土曜日のたまねぎ』や『砂の城』や『青空のかけら』も名曲なので機会があったら聴いてもらいたい。 余談になるが、『めぞん一刻』は80年代に石原真理子主演の実写版と完結編と称した最終回の追加エピソードの二つの映画がある。両方とも劇場で鑑賞したが完結編は完全にファン向けに作られていたので楽しめた(うる星やつらの完結編と同時上映だった)。実写版は…忘れたほうがいい出来だった。一ノ瀬さんを演じた藤田弓子さんの再現度が高かったのは覚えている。それ以外は…おっとこれは『めぞん一刻』を崇め奉る文章だった。好意的に解釈して、漫画の実写映画化の難しさを40年前に警鐘を鳴らしていた作品としておこう。ときどきあるじゃないですか。漫画の実写映画化で炎上することが……。 今こそ『めぞん一刻』復活を! 高橋留美子先生は令和になっても漫画界の大スターでありトップランナーでありバリバリの現役だ。嬉しいのは最近、過去作がふたたび取り上げられていることだ。つい先日まで延べ1年間4クールにわたって放送されていた、『うる星やつら』のリメイク版が記憶に新しいところだ。令和の時代に昭和感を損なうことなく『うる星やつら』をよく再構築していた素晴らしい作品だった。旧作アニメでは放送されなかったラストエピソード『ボーイミーツガール』まで観ることができてよかった。 さらに『らんま1/2』のリメイクも発表されている。今春放送されていた『アストロノオト』のように『めぞん一刻』のパロディのような作品も出てきている。なんだか『めぞん一刻』リメイクの機運が高まっているような気がしないでもない。80年代の文化の良いところや悪いところが作品に大きくかかわっているので、今、忠実に再現するのは難しいのはわかってはいるけれども、期待したいところである。50歳の大人になった僕は、ふたたび音無響子に夢中になってみたいのだ。