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米津玄師の原点、ハチの音楽を辿る。15年来のファンが選ぶ名曲ランキング

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 今回紹介する記事は『米津玄師の原点、ハチの音楽を辿る。15年来のファンが選ぶ名曲ランキング』。ぐりこさんが書かれたこの記事では、米津玄師こと「ハチ」の名曲について語っていただきました! 米津玄師さんは、いま日本でいちばん注目度が高いと言っても過言ではないアーティストではないでしょうか。 今回は、そんな米津玄師さんの原点である「ハチ」時代の名曲を、15年来のファンである筆者が紹介していきます。 最近米津玄師さんのファンになった方や、ハチ時代のことを知らない方は、ぜひチェックしてみてください。ハチ時代を知っている方は、当時を懐かしむような気持ちで楽しんでもらえたら嬉しいです。 ボカロP「ハチ」の時代は、米津玄師の原点である 出典:米津玄師 公式Instagram 古参ファンから新たなファンまで、多くの人々を熱狂させた機動戦士ガンダムの最新シリーズ『ジークアクス』の主題歌となった『Plazma』。 アニメ『メダリスト』の主題歌で、フィギュアスケーターの羽生結弦さんとコラボしたMVが話題となった『BOW AND ARROW』。 Netflixドラマ『さよならのつづき』の主題歌である『Azalea』、ジョージアのCMソングである『毎日』、NHK朝ドラ『虎に翼』の主題歌である『さよーならまたいつか!』。 最近の楽曲だけ振り返ってみても、名だたるタイアップで大忙し。「米津玄師さんの名前や楽曲を耳にしたことがない人は、もう日本にはいないんじゃないか」とさえ思えるレベルです。 そんな彼は「米津玄師」名義で活動する前、ボカロP「ハチ」として活動していました。 ボカロPとはVOCALOID(※)を使った楽曲をリリースしている人たちのこと。米津玄師さんも数々のボカロ曲を手掛け、ニコニコ動画に投稿していた名ボカロPだったのです。 私はハチ時代に彼の存在を知り、そこからずっと彼の曲を聴き続け、気づけば15年経っていました。今年で32歳なので、半生近く、彼の曲を聴いていることになります。急に古参感を出し始めるウザいヲタクですみません。 そんな私がいつも思うのは、ハチ時代があったからこそ、いまの米津玄師さんがいるということ。 だからこそ、最近米津玄師さんを好きになった人には、ハチ名義の曲も聴いてみてほしい。きっと、彼のことをもっともっと好きになるはずだから。 ※VOCALOID:ボーカロイド。ヤマハが開発したもので、歌声を合成できる技術やソフトウェアの総称を指す。 ヲタクが選んだ、米津ファンにおすすめなハチの名曲ランキング ここからは、私が米民(米津ファンのこと)のみなさんに聴いてほしい、ハチの名曲をランキング形式で発表します。 完全に私の独断と偏見で選んでいますが、ヲタクの名に懸けて、本気でおすすめできる曲を選びました。 「ボカロの曲は聴いたことがない」「ボカロの電子的な歌声が苦手…」なんて方にも楽しんでもらいやすい曲を厳選しています。ぜひ、米津玄師さんの新たな一面を覗く気持ちで聴いてもらえたらと思います。 【1位】ドーナツホール https://youtu.be/qnX2CdOBcDI?si=_i1uBEf0YYBgS-6U 『ドーナツホール』は2013年10月に公開されたもので、ボーカロイドGUMIが歌う楽曲となっています。ハチさんらしい、曖昧で物憂いげなのに、どこか一筋の光が見えるような歌詞が魅力です。 米津玄師名義でセルフカバーもしているので、米民のみなさんなら聴いたことがあると思います。ただ、ぜひ原曲も聴いてみてほしい。 2024年の秋には、GODIVAとのコラボに際して、MVを刷新した『ドーナツホール 2024』が発表されました。 https://youtu.be/y7fu_nNQAEQ?si=vs3woPzUwb5TVIrQ GUMI・初音ミク・巡音ルカ・鏡音リンの4人を主人公にしたMVは、ストーリー性のあるアニメ調の内容になっていて、見ていて楽しい作品です。 私は先日『米津玄師 2025 TOUR / JUNK』の東京ドーム公演に行ったのですが、ドーナツホールがセットリストの一曲に入っていて、感無量でした。まさか令和のこの時代に、ドーナツホールを米津玄師さんの生声で聴けるなんて……と、ちょっと泣いてしまいました。 【2位】砂の惑星 feat.初音ミク https://youtu.be/AS4q9yaWJkI?si=sm97-6v--sdCiju5 『砂の惑星 feat.初音ミク』も、米津玄師名義でセルフカバーしている楽曲なので、聴き覚えのある米民が多いかと思います。 2012年に米津玄師としての活動がスタートして以降、ハチ名義での活動は控えられていました。 そんな中、2017年7月に、初音ミク10周年記念イベントのテーマソングとして作られ、ハチ名義で発表された本曲。5年ぶりのハチさんの新曲に、ハチファンたちは大いに湧きました。 良い意味でちょっと「スレた感じ」の歌詞を、初音ミクがゆったりとしたテンポで、気だるげに歌い上げる。 歌詞の中には、ボカロファンが「あ、あの曲のことだ!」と湧いてしまうようなフレーズがちりばめられていて、ファンたちがこぞって考察をしていることでも有名です。 「ボカロには疎い」という方は、まずは「米津玄師さんの歌声で聴くのとは少し違うな~」なんてところから楽しんでみてください。 【3位】マトリョシカ https://youtu.be/HOz-9FzIDf0?si=4g0Ltz1Qx1bYF_Al 2010年8月にリリースされた『マトリョシカ』は、ハチさんを代表する超ヒット曲のひとつ。リリースからしばらく経っても、本曲を使った「歌ってみた」や「踊ってみた」でニコニコ動画が盛り上がっていました。 軽快なギターサウンドと力強いドラムが心地よいテンポを刻む、賑やかな楽曲です。 ハチさんの他楽曲と比較しても特に意味深な歌詞ですが、キャッチーさも感じるような言葉並びと、繰り返されるフレーズが中毒性の高い一曲です。 もし「曲自体は良いけど、ボカロの高音がちょっと苦手かも…」と感じるようであれば、「歌ってみた」を聴いてみるのもおすすめ。曲自体を好きになれば、ふとした瞬間に「あれ、ボカロの声も良いかも~!」と思えるようになるはずです。 https://youtu.be/P0FrMZJ1618?si=MERAnz4MmTDf5aTv 【4位】パンダヒーロー https://youtu.be/0RU_05zpETo?si=wXX6pOvteSLdubLf 『パンダヒーロー』は2011年1月にリリースされた楽曲で、歌い手はGUMI。マトリョシカにかなり近い雰囲気で、力強く軽快なドラムのリズムと、巧妙な言葉遊びが聴いていて心地よいです。 アップテンポではあるものの、マトリョシカに比べるとリズムはゆったり目。ボカロ特有の高音感も抑えられているので、ボカロ初心者でも聴きやすいと思います。 曲名のとおり「ヒーロー」を主人公にした歌詞となっていますが、王道な正義のヒーローというよりかは、ダークヒーローな雰囲気。 砂の惑星や、ドーナツホールのMVからも感じますが、ハチさんの世界では「荒廃した地」や「独自の正義」などが大きなテーマになっていることが多いですね。 聴けば聴くほど、アンニュイな魅力に取り憑かれてしまう一曲だと感じます。 【5位】WORLD’S END UMBRELLA https://youtu.be/GlBWvRslL2c?si=wqls5woZrqsXmxn5 『WORLD’S END UMBRELLA』は、ハチさんが活動開始から3曲目に投稿した楽曲であり、彼の歴史の中でも特に古いもの。 ただ、「古さ」や「粗さ」は感じず、むしろ米津玄師名義で発表している楽曲にも通ずるニュアンスを感じます。 曲調は、オルゴールを思わせる繊細で、輝きのある音を多く用いて作られているのが特徴です。 ハチさんの曲にはダークな雰囲気のものや、アンニュイな雰囲気のものが多いですが、この曲はそういった仄暗さを感じない、爽やかな曲調となっています。 歌詞は切ないような、幸せに満ちているような。聴く人によって解釈の分かれる、ハチさんらしい詩が並んでいます。 【6位】Mrs.Pumpkinの滑稽な夢 【オリジナル曲PV】Mrs.Pumpkinの滑稽な夢【初音ミク】 2009年10月、ハロウィンに先駆けて発表されたのが『Mrs.Pumpkinの滑稽な夢』です。思わず身体がリズムを刻んでしまうような、小気味のよいテンポが楽しい楽曲となっています。 影のあるムードなのに、暗くはない。そして繰り返し聴きたくなるような中毒性は、米津玄師名義で発表されている『死神』に近いものを感じます。死神にハマった米民たちは、Mrs.Pumpkinの滑稽な夢にもハマるんじゃないでしょうか。 https://youtu.be/8nxaZ69ElEc?si=DriUnpztYBcov2Rw また、Mrs.Pumpkinの滑稽な夢は「歌ってみた」も盛んに投稿されていました。数々の作品の中でも、格段に人気だったのが赤飯さんによる作品です。 https://youtu.be/JiXpRXkqbvc?si=GJ3VtLmV2SLuLBmn 赤飯さんによるアレンジを混ぜて歌い上げられており、強烈なハロウィン感漂う雰囲気に心奪われる人が大量発生しました。原曲とあわせてこちらも聴いてみると、新しい楽しさや魅力を発見できると思います。 【7位】リンネ https://youtu.be/EahYs-8tTjQ?si=gwuVNPJXJOATwMQU 『リンネ』は2010年7月にリリースされた楽曲で、個人的にはハチさんの曲の中でトップクラスに好きな曲です。 米津玄師名義の曲にはあまり見られない、人間の仄暗いところを詰め込んだような、ドロドロとした歌詞が特徴的。 曲調はハードなロック調で、全体的に「重~い」という印象を受けます。ただ、この重さがいいんですよね。 特に、私が「私が言うまでもないけど、ハチさんって天才なんだなあ」としみじみしてしまった歌詞がこちら。 蝉の鳴いて堕ちる頃電線が裂いた赤の下立ち入り禁止 蹴っ飛ばしてハチ『リンネ』 暗くて独特な言葉選びなのに、直感的に訴えかけてきて、その情景がありありと浮かんでくる。こんな切り取り方や、描き方をするセンスに、もう誰も追いつけないだろうと私は思います。 【8位】結ンデ開イテ羅刹ト骸 https://youtu.be/AKffZySqQts?si=E5tcDjleK9yX7DdL リンネが気に入った方にイチオシなのが『結ンデ開イテ羅刹ト骸』。2010年1月に公開された本曲は、ちょっと背筋が冷えるような、おどろおどろしい雰囲気が特徴的です。 和テイストの旋律と、童謡のエッセンスを取り入れた曲調は、良い意味でレトロな雰囲気を感じられます。ただ、古臭い退屈さは一切なく、いつ聴いても新しい楽しさを感じられるのが不思議。 私は椎名林檎さんも半生以上愛しているのですが、結ンデ開イテ羅刹ト骸が孕む仄かな狂気と不気味さは、椎名林檎さんの『りんごのうた』や『歌舞伎町の女王』に近いものを感じます。 https://youtu.be/krCk3EcsaxE?si=CGbui6HC9wbDwxOI いつか何かが間違って米津玄師さんと話せることがあったら「もしかして、椎名林檎さんの曲、好きですか?」と聞いてみたい。もはや自分で聞けなくていいから、誰か偉い人が聞いてきてほしい。(どこかのインタビューとかで発表されていたら教えてください…) 【9位】演劇テレプシコーラ 【オリジナル曲】演劇テレプシコーラ【初音ミク】 2010年4月リリースの『演劇テレプシコーラ』は、ハチさんの楽曲に共通する要素がふんだんに盛り込まれている一曲です。 マトリョシカやドーナツホールのような「虚構と現実」がキーワードになっていたり、リンネのように「逃れられない宿命」を描いていたり、WORLD’S END UMBRELLAのように儚く美しいメロディーになっていたり。 いろんな「ハチさんらしさ」が織り込まれていて、私はとっても好きな曲です。 ピアノとギターが織りなす繊細なサウンドと、ハチさんならではの世界観の歌詞が、聴くたびに心に染み付いて離れなくなります。高音感や電子音が少なく、全体的にまろやかなので、ボカロに聴き慣れていない方でも違和感なく聴けるはずです。 【10位】clock lock works https://youtu.be/hEyvYm2YRXQ?si=DggsrmudLJowJtao ここまでにご紹介したハチさんの曲は、ダークなものやアンニュイなものが多かったですが、それとは一変して明るく楽しいメロディーなのが『clock lock works』です。 2009年11月に発表された本曲は、「時間」と「歯車」が大きなテーマになっています。 時計の歯車や、社会の歯車として働く自分、いろんな「歯車」の動きと「時間」の巡りを、ハチさんならではの描写で映し出しています。 テンポの良い曲調からは想像もできないような深い歌詞なので、ぜひ歌詞にも注目しながら聴き入ってほしい一曲です。 【番外編】沙上の夢喰い少女 https://youtu.be/mq3t6aCbb8o?si=aJz6AKDzuyDqLk_Y 「あれ、なんか聴き覚えがある」と思った米民の方、正解です。2010年5月に発表された『沙上の夢喰い少女』は、2017年に『ゆめくいしょうじょ』としてリメイクされ、米津玄師名義で再び世に送り出されました。 正直、個人的にはゆめくいしょうじょのほうがゆったりしていて、心に染みる感じがするので好きです。 ただ、米民のみなさんには原曲も楽しんでほしく、番外編としてピックアップさせていただきました。 米津玄師であり、米津玄師ではない。ハチの名曲を聴いてほしい 出典:YouTube『ハチ - 砂の惑星 feat.初音ミク』 こうしてハチ時代の名曲を振り返ってみて感じたのが、「昔からとんでもねえペースで曲を出しているな」ということ。 この宝物みたいな、すばらしい曲たちを短いスパンでどんどん出せるのって、才能もあると思いますが、とにかく音楽が大好きなんだろうな…という感じがしてほっこりします。 先日のライブで、米津玄師さんは「当時、ニコニコ動画にボカロの曲を投稿すれば、多くの人に届くんじゃないかと思った。その予想の通り、いろんな人が聞いてくれて、画面の向こうに応援してくれている人がいることが心強かった。画面の向こうにいた人たちと、いま同じ空間にいることに感動する」といった意味合いのことを言っていました。 いまはハチ名義での楽曲リリースはほとんどありません。それでも、彼が心のなかで「ハチ時代」や「いまもハチであること」を大切にし続けてくれているのが、ファンとしては何よりもうれしいです。 だからこそ、ハチ時代の名曲も、いろんな方に聞いてほしいと思います。 彼の音楽を心から愛する者として、これからも、彼のすてきな曲が一人でも多くの人に届いてほしい。そんな願いを込めて、筆を置きます。 ※本記事のアイキャッチ画像は米津玄師 公式Instagramより引用

今夜もどこかで涙の匂い『夜廻り猫』ファン必見!Twitter発の心温まるストーリー

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「今夜もどこかで涙の匂い『夜廻り猫』ファン必見!Twitter発の心温まるストーリー」。森佳乃子さんが書かれたこの記事では、『夜廻り猫』への偏愛を語っていただきました! 「普通に就職して、結婚して子供も産むんだと思ってました」。就職氷河期世代の人に話を聞いたことがあります。短大を卒業したものの、就職できなかった女性。就活中、いったいどれだけのエントリーシートを送っただろう。数十社を超えたころ、数えるのをやめてしまったといいます。 その後、パートやアルバイトで収入を得る生活。10年前に契約社員となったが収入は低いまま。実家から出ることもなく、今年50歳になる女性。「このまま、親の介護に突入して自分の人生は終わるのだろうか。私の人生はいったいなんだったのか」。そんな疑問が浮かんではそのたびに振り払う。 少子高齢化が叫ばれて久しくなります。そして「失われた30年」と「就職氷河期」。この時代に生まれた、というだけなのに、「普通」は手に入らなかった……。そんな人はたくさんいるのではないでしょうか。 「就職氷河期」と呼ばれる、企業が極端に採用を抑制したバブル経済崩壊後の1993年~2004年ごろに就職活動を行っていた人たち。「数少ない椅子を奪い合い、競争に勝った人たちは勝ち組。わたしは負け組」とインタビューに答えてくれた女性はちょっと自虐的に笑っていました。 「それでもわたし、わりと自分のこと好きなんです」 本心から言っているのか、自分を肯定し、鼓舞するために言っているのかはわからない。けれど、自分が生まれてきたこと、生きてきた時間を肯定したい。そんな、必死に生きている人たちに寄り添い、心に秘めている思いを語らせてくれる猫がいます。 「夜廻り猫 遠藤平蔵」 作者は深谷かほるさん。初めてX(当時はTwitter)でこの漫画を読んだ時に、深谷先生に会ってみたいと思いました。過去に投稿されていた『夜廻り猫』をすべて読み、発行されていた単行本を買いました。大阪で原画展とサイン会が開かれるとの告知をTwitterで読み、先生に会いに行ったことがあります。 マンガの中で先生はご自分のことを「おばあちゃん」のように描いていますが、本物の深谷先生はとても若々しくステキな方でした。先生にサインしていただいた2巻には「重郎」のイラストと「じゅーろ、ここにおるよ」のセリフを書いていただきました。わたしの大切な宝物です。 そんな『夜廻り猫』の魅力を語りたいと思います。読んでみてください。 『夜廻り猫』は、漫画家・深谷かほる氏が描く、心の涙の匂いをかぎつけて人々に寄り添う猫の物語です。頭にサバ缶を乗せたグレーの野良猫「遠藤平蔵」は、人の心に流れる涙のにおいをかぎ取ってやってきます。 本作は、読者の心に深く響くストーリーと魅力的なキャラクターで多くの支持を集め、単行本化、その後アニメも制作されました。本は国境を越え、韓国、台湾でも発売。本記事では、『夜廻り猫』の魅力や登場キャラクター、作者の思い、そして作品の社会的影響について詳しく解説します。 『夜廻り猫』とは 『夜廻り猫』第1話 『夜廻り猫』は、2015年10月から深谷かほる氏がTwitter上で発表を始めた漫画作品です。物語の中心となるのは、猫の遠藤平蔵。彼は、心で泣いている人々の涙の匂いを感じ取り、その元へと足を運びます。その際、彼の相棒である片目の子猫・重郎(じゅうろう)も共に行動します。 平さんと重郎が向かうのは傷つき、心折れそうになりながらも歯を食いしばり立ち上がって歩き出す人たちだけではありません。時には喜びの涙を流す人たちのところにも。平さんと重郎はどんな時も「喜ぶ人と喜び、泣く人たちと泣く」のです。 人だけでなく、カラスやタヌキ、他の猫たちにも平さんの注意は向けられます。時には戦い、傷つきますが、それでも平さんは重郎を懐に抱き、今日もどこかで流される涙のにおいを追いかけます。慰めるつもりが反対にもてなしを受けることもあります。 「人は一人で生きているのではない。持ちつ持たれつなのだ」。男性や女性、子供やお年寄りまで。日常生活での悩みや苦しみ、喜びや悲しみといった人々の感情を丁寧に描き、多くの読者の共感を得ています。 「もしおまいさん、泣いておるな」 『夜廻り猫』第一巻 深谷かほる氏は、1962年に福島県で生まれた漫画家です。代表作には『ハガネの女』や『エデンの東北』などがあります。2015年10月からTwitterで『夜廻り猫』の連載を開始し、その独特の世界観と温かみのあるストーリーで多くのファンを獲得しました。また、2017年には第21回手塚治虫文化賞短編賞を受賞し、その才能が広く認められています。 そんな深谷氏と暮らしてきた猫や、漫画にも登場する実家猫の「すばる」(保護猫。ダイエット中なのに常に食べ物を狙っている。基本東北弁でしゃべる)、深谷氏の友人で横浜に住む「しづさん」が世話をする野良ネコたちや、右の羽が折れた「ミギ」と左の羽が折れた「ヒダリ」と名付けられたカラスたちなど、たくさんの動物がモデルとなって登場します。 現在(2025年2月)『夜廻り猫』は11巻まで発行されており、WEB版は週に2回更新されています。たまに深谷先生の「今日は書けなかったからお休み!」なんて自虐マンガ(?)が投稿されていることもあり、肩ひじ張らないところもまた人気の秘密かもしれません。 マンガでは、世間の話題にはならず見過ごされているけれど、毎日を懸命に生きている(必死に生きざるを得ない人たち)の日常が取り上げられます。登場する人たちはみな、どこかで会ったことがあるような気がします。 いや、もしかしたら、これはわたしかも。そんな風に思えるほど、描かれるエピソードは身近なものです。 主要な登場キャラクター 『夜廻り猫』第59話 遠藤平蔵「一人泣く子はいねがあ」 物語の主人公である遠藤平蔵は、心の涙の匂いをかぎつける能力を持つ猫です。彼は、夜の街を歩きながら、悩みや悲しみを抱える人々の元へと足を運び、その心に寄り添います。その姿勢は、多くの読者に癒しと共感を与えています。 トレードマークは頭に乗せたサバの空き缶。コワモテの灰色猫。いつも半纏をまとい、懐には片眼のない子猫「重郎」を抱えています。 「子連れ狼」(昔人気だった時代劇)よろしく、いつも小さな重郎を守り、時には自分の食べるものを与えます。血のつながりはありませんが、親が子供を守りたいと思う、自然な愛情がそこにあります。 何もかも思い通りにいかない。良かれと思ってやったことがすべて裏目に出ている気がする。わたしのことなんか気にかけてくれている人なんかいない。 泣きたくても泣けないとき。一人で涙をこらえる夜。生きていれば誰しもそんな夜があるのではないでしょうか。 そんな時、平さんはやってきます。 「もし、そこなおまいさん。泣いておろう心で」 平さんもたまに間違うことがあります。悲しみの涙ではなく、うれしくて泣いているときも。そんな時も平さんは一緒に喜びを分かち合い、涙の主からふるまわれる食事を重郎とともに食べて帰っていくのです。 人生、いろいろあるよね。いろいろあるけど、悪いことばっかりじゃない。きっといい時もある。だから立ち上がって歩き出せ。平さんは力尽きそうになった人に、その声が届いていなくてもエールを送り続けます。 重郎「じゅーろ、ここにおるよ」 遠藤の相棒である片目の子猫・重郎。彼は、遠藤と共に行動し、人々の心の痛みに寄り添います。その無邪気さと純真さで、読者の心を捉えています。初登場は1巻、第68話。 『夜廻り猫』第68話 重郎は生まれて間もなく一人ぼっちでいたところをカラスに襲われました。長老猫は「死なせてやれ」と言いますが、平さんは長老の制止を振り切って重郎を救出します。たとえ、長く生きられなくても「今日ここにある命」。小さな命に対する保護は「生まれてきた祝いだ」と平さんはいい、自ら水路に飛び込み、ずぶぬれになりながら自分の毛を吸わせて子猫に水を与えます。 「生まれてきた日」おめでとう。自分が生まれてきた日に何の意味があるのだろう。そんな風に感じている人にとって平蔵の重郎に対するまなざしは優しく、心を暖めます。生まれてきた日、おめでとう。生きていることそのものが祝いだ。 「おまいさんは頑張っておる」。たとえすべてが揃っていなくても、あなたは「負けた」人じゃない。自信をもって生きていけ。 『夜廻り猫』第195話 宙さん「オレには平さんのような生き方はできない。だからいいのさ」 『夜廻り猫』第55話 「先生」の飼い猫。のんびりした飼い猫らしい気のいい猫。平蔵と重郎をいつも気にかけています。「先生」も宙さんが求めるままに平蔵と重郎を招き入れ、寒い日にはマタタビ茶、時にはブリを焼いてふるまってくれます。 過酷な野良猫暮らしの中でも時折訪れる宙さんとの楽しい時間。何を話したか忘れるぐらいです。一緒に暮らさないかと誘う宙さんですが、平蔵は断ります。自分にはなすべきことがある、と。宙さんはそんな平蔵を見送り、自分はいままでどおり、「先生」との暮らしを続けます。友達であり続けること。友達が困った時にはすぐ手を差し伸べられるようにある程度の余裕があること。 「オレには平さんのような生き方はできない。だからいいのさ」 持てるものは持たざる者に分け与える。宙さんのような存在も必要です。 ワカル「わかります~」 『夜廻り猫』第114話 「夜廻り猫見習い」。平蔵に憧れて夜廻りを始めたが失敗も多い。「わかります~」が口ぐせのお調子者。どんくさいが、いつの間にか人の懐に入って和ませているキャラクターです。料理が得意で、話を聞きながらいつの間にか訪問した人の冷蔵庫の中にあるものでおいしいものを作って一緒に食べる。 「誰かと食べること」だけで元気になれる人もいます。平さんとはまたひとあじ違った、おとぼけキャラで人気者に。別冊「居酒屋ワカル」が出版されました。 最近ではワカルも成長し、独立してしっかり夜廻り猫をしているようです。宇宙からやって来た仔猫の「トロ」とともにさっちゃんのお世話をしながら(お世話されている?)居候をしています。『夜廻り猫』では高齢の人たちが野良生活をしていた猫を引き取り、一緒に暮らしています。 一人暮らしの高齢者には譲渡できないと断られることもあるそうですが、独り暮らしの高齢者の見守りが社会でしっかりできれば、猫との暮らしは寂しさを癒す効果があるのではないでしょうか。 しづさん「大変と不幸は違うのよ」 『夜廻り猫』第192話 『夜廻り猫』には「いい人」がたくさん出てきます。宙さんの飼い主である「先生」やワカルの同居人「さっちゃん」。不愛想で人付き合いは苦手だったのに「きよし」と「ぼうし」の二匹の仔猫を引き取り、右往左往しながらも世話をする「きよし」さんなど。「世の中まだまだ捨てたもんじゃない」。平さんはそんなことも教えてくれているのかもしれません。 そんな人の一人が深谷先生の実在の友人「しづさん」です。野良猫やケガをしたカラスなど、弱いものを見捨てられず世話を続けます。しづさんの住むマンションの自転車置き場に、引っ越した住民が置き去りにした猫がいました。 人を信用しなくなった「ホコリ」をしづさんは根気よく世話します。ホコリは最終的にしづさんに引き取られ、2024年3月に24歳まで生きて亡くなりました。人間に捨てられて人間に不信感を持つようになった猫が、最後に人間を信頼して一生を終えられたことに、全猫飼い代表としてしづさんにお礼を言いたい。 右の翼が折れていた「ミギ」と左の翼が折れていた「ヒダリ」は2020年に姿を見せなくなりました。11巻949話で、おそらく寿命を迎えた二羽がしづさんにお別れを告げに来ます。その後はカラス天狗になるための修行に出たのではないかと重郎に平さんが説明するシーンがあります。 しづさんはアンティークドールの制作者でもあり、Xでホコリそっくりの人形を公開しています。17歳になる猫のピピと暮らしながら、いまも小さくて消えてしまいそうな命を気にかけていることでしょう。 『夜廻り猫』で語られる名言 『夜廻り猫』には名言も多く、「心で一人泣いている」人たちを慰めています。特に40話は、メッセージ性の強い作品です。平蔵が直接登場人物と関わるわけではなく、生きることに疲れた人たちに対するエールになっています。 「一度に上を見るな。ひと足ひと足歩け。いつの間にか半分登った。その調子だ!おまいさんは傷つき、病んだ。負う荷物は重く、闇夜無道をただ一人。夢は叶うかわからない。いつまでも傍にはいてやれない。幸福すらも祈るのみ。しかし大丈夫だ。進んだぞ!歩ける。おまいさんは最後まで歩けるぞ!」 『夜廻り猫』第40話 1巻の最後では、社会の片隅でひっそりと生きる人たちに対して平蔵が頭を下げています。 「(不登校の)あの子は、動かないが耐えるという仕事をしておる。(重い病気で闘病中の)あの子は何もできないように見えるが24時間闘っている。ああ、話したいんだ。あなたが私を励ましたことを」(太字は筆者) 『夜廻り猫』第一巻 「社会的に成功者とみなされる人たちだけが頑張ったわけじゃない。みんな頑張って生きている。そして、お互いに励まし、励まされて生きている」 「ありがとうに、ありがとう」 それが深谷先生が『夜廻り猫』に託したメッセージなのかもしれません。 『夜廻り猫』の社会的影響 『夜廻り猫』は、SNS上での連載開始から多くの反響を呼び、書籍化や展覧会の開催など、その影響は多岐にわたります。特に、読者からの共感の声や感想がSNS上で多数寄せられ、作品の持つメッセージが広く共有されています。また、深谷氏自身も猫への深い愛情を持ち、その思いが作品を通じて伝わってきます。 『夜廻り猫』は、人々の日常生活に潜む悩みや苦しみ、そして喜びや希望を描いています。遠藤平蔵が人々の元を訪れ、その話に耳を傾けるとき、読者は自身の経験や感情と重ね合わせ、深い共感を覚えます。この作品は、他者への思いやりや共感の大切さを伝えており、現代社会における人間関係の在り方を考えさせられます。 まとめ 『夜廻り猫』最新刊11巻 『夜廻り猫』は、深谷かほる氏の温かみのある筆致で描かれた、人々の心に寄り添う物語です。その深いテーマと魅力的なキャラクターたちは、多くの読者に感動と癒しを提供しています。まだ読んだことのない方は、猫が好きな人もそうでない人も、ぜひ一度手に取ってその世界観に触れてみてください。「平さん」を通して投げかけられる、「頑張っている人たち」に対する深谷先生からの優しいエールのとりこになるはずです。

衝撃的な展開で何回観ても涙が出るけど、なぜか脳汁も出る傑作アニメ3選

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 今回は、あまりの衝撃的な展開に、何度観ても号泣してしまうアニメを厳選してご紹介!筋金入りのアニメファンであり、スロットを愛して止まない放蕩ラザイエフさんがまとめてくれたようですが…? はじめまして!大学在学時より、周囲の友人やライターをパチスロの世界に誘うことをライフワークとしております放蕩ラザイエフ(@prodigalrzhyev)と申します。 今回は「展開が衝撃的で何度観ても脳汁が出てしまう」いや失礼、「展開が衝撃的で何度観ても泣いてしまうんだけど、なぜか脳汁が出ているような気がしてならないアニメ」をご紹介したいと思います。 なお、読者の皆様が作品を深く理解していただけますよう、作品が公開された際に社会に与えたインパクトや、当時展開された批評・考察についても紹介するつもりでおります。ネタバレもございますので作品未視聴の方はご注意ください。 ちなみに、この記事では号泣必至のエピソードを選り抜いてご紹介していますし、私自身、映像を観返すたびに登場人物たちの覚悟や行動、そしてその悲劇的な結末に涙しているのですが、 どういうわけか、それぞれのシーンで惹き起こされる「悲しみ」の感情は、「喜び」の感情とも強く結びついている気がしてならないのです。 人間の感情って、不思議ですね。それではさっそく作品を振り返っていきましょう! 「つまり記憶と言うものは決してそれ単体で存在せず、それを取り巻く環境に支配されているという訳だ」 - 『交響詩篇エウレカセブン』ストナー 1.「魔法少女まどか☆マギカ」(2011年公開) 1話「episode1 夢の中で逢った、ような……」はABEMAにて無料視聴可能。 出典:ABEMA「魔法少女まどか☆マギカ」(https://abema.tv/video/episode/26-1csgwzchpyj_s1_p1) ■あらすじ見滝原中学校で平和な日々を過ごす中学2年生、鹿目まどか。ある日、転校生として同じクラスにやってきた謎の少女・暁美ほむらが、マスコットのような可愛らしい見た目の生き物「キュゥべえ」を襲撃している場面に遭遇する。怪我をしたキュゥべえを助ける途中、友人である同級生の美樹さやかとともに摩訶不思議な空間に迷い込んでしまうも、学校の先輩であり"魔法少女"である巴マミの助けによって脱出に成功。マミに治療を受けたキュゥべえは、「ぼく、君たちにお願いがあって来たんだ」と笑顔で二人に語りかける。「僕と契約して、魔法少女になってほしいんだ」 ポイント(1)『現代用語の基礎知識』にも掲載された「マミる」 脚本を担当したのは、のちに『Fate/Grand Order』を手掛ける虚淵玄。漫画家・蒼樹うめ(通称「うめてんてー」)原案の、かわいらしくほのぼのとしたタッチのキャラクターが、ダークで重厚な展開に翻弄される姿が注目を集めました。 https://twitter.com/madoka_magica/status/1879128830440272124?ref_src=twsrc%5Etfw ↑物語の鍵を握るマスコット"らしきもの"「キュゥべえ」。このアニメ随一の外道ですが外見は本当に可愛らしいですね。 本作を語るうえで外せないのが、第3話 「もう何も恐くない」で発生した巴マミの戦死、通称「マミる」。主人公の先輩である魔法少女・巴マミが、敵である"お菓子の魔女"に頭を丸かじりされ、物語から早々に退場したことに視聴者は騒然。 https://twitter.com/madoka_magica/status/1879143738775384330 ▼3話はこちらで公開されています。 https://www.nicovideo.jp/watch/so13395169 「魔法少女モノでキャラが戦死する」想定外の展開が話題を呼び、当時ネット配信していたニコニコ動画では3話から急激に再生数が増えました。 当初は"日常系の、ほのぼの学園アニメ"だと思われていたものが、このエピソード以降はハードな作風に変化。魔法少女たちがその決意を挫かれ、精神的に追い詰められていく様子が描かれます。 なお、この回を機に、他のアニメでもキャラクターの頭部が消失するような退場をした際に「マミる」「マミった」と呼ぶ人が増加。用語として確立したことから『現代用語の基礎知識 2012年版』に「悲惨な死に方をする」という定義で掲載されました。 ■参考:マミる (まみる)とは【ピクシブ百科事典】  マミる 『魔法少女まどか☆マギカ』関連の用語。※この記事はグロテスクな要素があります。閲覧の際はご注意ください。 dic.pixiv.net ちなみに遊技機ですと、第3話のタイトルでもあり、後世に語り継がれる死亡フラグともなった「もう何も恐くない」という巴マミのセリフが、多くの人の脳汁が出るトリガーになっているとかいないとか。 実際、マミさんには申し訳ありませんが私は出ます。なぜならART中に突如出現するPUSHボタンを押すと表示されることがあったから(恩恵は大抵、レア役+ゲーム数上乗せ)。 ↑2019年10月30日に筆者撮影。パチスロ「まどか☆マギカ2」ではマミさんの死亡フラグ「もう何も恐くない」がちょい熱めの演出として使われていた。 ポイント(2)平成ライダーシリーズ『仮面ライダー龍騎』と展開が酷似! 平成仮面ライダーシリーズの3作目『仮面ライダー龍騎(2002年)』と物語の展開が相似していることにも注目ポイント。同作のキャッチコピーは『戦わなければ、生き残れない』。鏡の中のモンスターと戦いつつ、並行してライダー同士が自らの願いをかなえるために「それぞれの立場の正義」を掲げてバトルロイヤルを行う異色の作品です。 https://www.youtube.com/watch?v=d39Mm_2TkUA 『魔法少女まどか☆マギカ』は、既に多くの人が指摘している通り・登場人物同士が戦い合うこと・仲間たちが悲惨な死を遂げること・物語の鍵を握る人物がタイムリープ能力を持っていることなど、『仮面ライダー龍騎』のシナリオをそのまま落とし込んだかのように共通点が多い作品でもあります。ルーツとなった作品と表現しても良いかもしれません。 なお、龍騎とまどマギで決定的に異なる点はタイムリープ能力がより残酷な使われ方をしていること。第10話「もう誰にも頼らない」では、転校生・暁美ほむらがとある理由からタイムリープを何度も繰り返していたことが判明します。 出典:X|@saidforest02 ▼10話はこちらで公開されています。https://www.nicovideo.jp/watch/so13866019 時間を止める能力を駆使して、様々な施設から火器を調達することにより本作のラスボスである「ワルプルギスの夜」に繰り返し挑むほむら。しかしながら作中最強の魔女に敵うことはありません。 状況があまりに凄惨過ぎて、視聴者ともども「嫌だぁ…もう嫌だよぉ…こんなの…」となっているところに突如挿入される特殊エンディング。10話をリアルタイムで視聴していた自分は、心の底から納得した一方で「人の心とかないんか?」と思いました。 https://www.youtube.com/watch?v=XCGk9nWx6DE なお、ほむらのタイムリープにまつわるエピソードは、遊技機においてはいわゆるロングフリーズ(※1)や特化ゾーン(※2)と絡められることが多いため、打ち手は10話・11話を観ているとなぜか脳汁が出がちです。 ※1 ロングフリーズ…パチスロにおいて、特別な条件下で発生するプレミア演出。発生した際の恩恵は大きく、多くの機種で大量の出玉を獲得しやすい状態になる。演出には往々にして作品の最も感動的なシーンが選ばれがち。※2 特化ゾーン…パチスロにおいてAT・ARTのゲーム数や獲得枚数を引き上げるゾーン。大抵の機種において「その日一番の叩きどころ」となり、特に「まどか☆マギカ」シリーズでは最もハラハラする楽しい時間になりがち。 私ですか?『初まど』『まどマギ2』ともにロングフリーズは引けずに終わりましたが、引いた時の映像は見たことがあるから脳汁は出ますね。自分は「私はまどかとは 違う時間を生きてるんだもの!」というほむらのセリフのあとに、画面がホワイトアウトしてタイトルロゴ+赤7同色BIG(単独)のナビが出てくる様子(発生確率:約1/131,072)を思い浮かべますが、皆さんはそうじゃないんですか? https://www.youtube.com/watch?v=skY9DCAnaI8 ポイント(3)本当に"神回"と化した最終話「わたしの、最高の友達」 10話「 もう誰にも頼らない」、11話「最後に残った道しるべ」も驚愕の展開でしたが、最終話「わたしの、最高の友達」も最高でした。ポイントは「自己犠牲の精神」です。 アルティメットまどか 私の願いは、全ての魔女を消し去ること… 大ヒットアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の最終回にて、主人公「鹿目まどか」 www.goodsmile.info 詳細はアニメ本編or遊技機の演出をご覧ください。何度観ても涙が出るのはアニメ本編の方で、何度見ても脳汁が出るのは遊技機の方です。 ほむらによる度重なるタイムリープが遠因となり、潜在的に途方もない資質≒宇宙を延命させるための莫大なエネルギーを内包することになった鹿目まどか。最終話にて、その資質を逆手に取ることにより"ある願い"を成就させます。 その願いとは「全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を、まどか自身の手で生まれる前に消し去ること」。 自信の魂を対価にするとはいえ、"新しい法則"を生成するという途方もない願いに対して「魔法少女になってほしい」と勧誘し続けてきたキュゥべえは驚愕します。「その祈りは…そんな祈りが叶うとすれば、それは時間干渉なんてレベルじゃない!因果律そのものに対する反逆だ!」 この願いが叶えば、まどかは個体として完全に消滅し、「未来永劫に終わりなく、魔女を滅ぼす概念として宇宙に固定される」ことになります。 まどかの願いを再確認するキュゥべえ。「君は本当に、神になるつもりかい…?」 キュゥべえの問いかけに答えるまどか。「神様でも何でもいい。今日まで魔女と戦ってきた皆を、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて、壊してみせる。変えてみせる」「これは私の祈り。私の願い。…さあ、叶えてよ、インキュベーター!!」 出典:X|@shibahuleaf ▼最終話はこちらで公開されています。https://www.nicovideo.jp/watch/so14227682 改めて最終話を観返すと、まどかの覚悟が決まり過ぎており、外面を作れないくらいダラダラと泣いてしまいます。逆に、遊技機の方でこのシーンを見かけると「すでに大体とんでもないことになっている」ためダラダラと脳汁が出続けます。 かなり感動的なシーンのはずなんですけど、遊技機の性質上、ロングフリーズや有利区間完走とは切っても切れない関係性にあるんですよね。なんというか、自分で書いていてちょっと悲しいです。 https://www.youtube.com/watch?v=yQ1zzQxC17Y   2.「コードギアス 反逆のルルーシュ」(1期:2006年、2期:2008年) https://www.youtube.com/watch?v=yLvlQPLAors ■あらすじ神聖ブリタニア帝国に支配された日本で、目と脚が不自由な妹ナナリーと暮らすブリタニアの元皇子ルルーシュ・ランペルージ。ある日、テロ活動に巻き込まれた際に出逢った謎の少女・C.C.(シーツー)により、他人に自分の命令を強制できる絶対遵守の力「ギアス」を授けられる。妹のナナリーが安心して暮らせる場所を作るため、仮面で素顔を隠して「ゼロ」と名乗り活動を開始するルルーシュ。レジスタンス組織「黒の騎士団」を結成し、ギアスを駆使してブリタニア帝国に対し戦いを挑む。「撃っていいのは、撃たれる覚悟がある奴だけだ!」 ポイント(1)人呼んで"厨二病大量製造"アニメ 特殊能力で社会をどうこうしようとする作品群としては『DEATH NOTE』と双璧をなすと思います。 「あなたがもし、ずば抜けて頭が良くて、"他者に何かを強いる能力"があったらどうする?」という中学生の頃に妄想しがちなIFシチュエーションを描きつくした"厨二病製造アニメ"と言っても過言ではないでしょう。 https://www.youtube.com/watch?v=68uCzPOWvcE なお地上波で放送されていたのは2006〜2008年で、私が高校生の頃でした。作品を観たのは成人してからですが、正直「リアルタイムで観ていなくて本当に良かった…」と思います。「今の自分は冴えないけど、ルルーシュみたいに普段は仮面を被っているだけなんですよね」みたいな自意識が芽生えたら大変なことになっていた気がする。 ちなみに遊技機の話に移ると、自分は『初代』は打っていませんが『R2』と『3』は打ち込みました。これはコードギアスが好きな人あるあるですが「(パチンコ・パチスロを)打っていいのは、撃たれる覚悟がある奴だけだ」って言いがちです。愉快愉快。 https://www.youtube.com/watch?v=0peGXuCuGZc ポイント(2)怒涛の早さで物語が展開するグルーブ感 一話で何回山場が来た???と確認したくなるくらい、怒涛の速さで物語が進むことも本作の見どころです。「幼馴染であり一番の親友が、実は敵陣営のエースパイロットだった」「自身が手にした特殊能力(ギアス)の暴走により、初恋の相手を自ら殺害する羽目になる」「裏切りに次ぐ裏切りにより、果ては国際社会そのものと対立する」など、1期・2期ともに衝撃的な展開がひたすら続きます。 個人的に一番キツかったのは、幼馴染である枢木スザクと完全に対立する原因となった「ユフィの死(通称:血染めのユフィ)」です。 https://www.youtube.com/watch?v=BwzHwItC4XI 私自身、視聴した当時はすでに大学を出ていたのにも関わらず、ユフィがスザクに向けた遺言「学校…行ってね…」が深く胸に刺さりました。その生まれや能力ゆえに、主要人物たちがあまり学校に通えていないことも『コードギアス』の特徴なのですが、『呪術廻戦』の五条先生が言う通りで、若人から青春を取り上げるなんて許されていないと思うんですよね。 ちなみにパチスロでは、出玉が絶好調な時にこのシーンが飛んでくることがあるのですが、エピソードボーナス(※3)で『血染めのユフィ』を引いてしまった時は正直うっすら泣いています。 ※3 エピソードボーナス…通常のボーナスと異なり、なんらかの恩恵が付いてくる特殊なボーナス(ATやARTが確定する、設定が示唆または確定されるetc)。やはり感動的なシーンが演出に選ばれがち。 俺、あまり真面目に学校に通ってなかったな…。なんだろう、作品を反芻するためにパチスロを打っているところはあるんですけど、このシーンだけは脳汁を出すのが申し訳なく感じるので、何度も見せるの止めてもらっても良いですか? ポイント(3)衝撃のラスト!「ゼロレクイエム」を見逃すな 物語後半、実兄であるシュナイゼルの策略により「絶対遵守のギアス」という強力な能力を保有していることが明らかにされたことで、ルルーシュはこれまで率いてきたレジスタンス組織「黒の騎士団」とも敵対することになります。 しかし逃走の果てに、父である第98代皇帝・シャルル・ジ・ブリタニアを世界から消滅させることに成功。そこから1か月後、ブリタニア帝国を追放されたはずのルルーシュが、なんと第99代ブリタニア皇帝の座に就きます。 https://www.youtube.com/watch?v=79G5OA_kdCc 世界を手中に収める計画「ゼロレクイエム」を完遂させるべく、かつて敵対した幼馴染・枢木スザクおよびその側近数名と動き始めるルルーシュたち。ついに、兄のシュナイゼルが率いる神聖ブリタニア帝国軍と、自身がこれまで率いてきたレジスタンス組織「黒の騎士団」までをも敵に回します。 そしてこの先には、人々にギアスをかけた代償として涙なしには見られない結末が待ち構えているのですが、こちらもパチンコ・パチスロでは大当たり演出と絡んでいることが非常に多いため、打ち手は映像を観るとなぜか脳汁が出がちです。悲しすぎる。 それでも、我々は忘れてはいけないのです。「撃って(打って)いいのは、撃たれる覚悟がある奴だけだ」と…。 https://www.youtube.com/shorts/AYNAseiTn_o 3.「甲鉄城のカバネリ」(2016年) https://www.youtube.com/watch?v=NljBw9RtOx4 ■あらすじ蒸気機関が発達した極東の島国・日ノ本(ひのもと)を舞台に、装甲車両のような蒸気機関車「甲鉄城」の乗客員と、不死の怪物「カバネ」との戦いを描いたスチームパンク。ウイルスによって増殖する不死の怪物「カバネ」の驚異に対抗すべく独自に武器を開発していた青年・生駒は、ある日自らの居住区に侵入してきたカバネに噛まれてしまう。自ら開発した装置によってウイルス感染を防ぎ、奇跡的に一命を取り留めた生駒。「甲鉄城」に乗り込んで居住区脱出を試みるも、噛み傷を乗員に見られたことにより感染者と認定され、搭乗員から攻撃を受けて強制的に下車させられる。駅に取り残されて打ちひしがれる生駒の前に、一人の少女(無名)が甲鉄城から降り立った。友人である逞生(たくみ)の助けもあり、甲板に引きずりあげられた生駒。自刃を迫る搭乗員たちに対して、驚異的な身体能力を誇る無名が自らの秘密を明かす。「私たちはカバネリ。人とカバネの狭間にある者」 ※補足※このアニメが用いられたスロットマシンの登場により、「どっこいしょ」の語源である言葉『六根清浄』が、脳汁が大量に出る魔法の言葉に変化してしまったことはあまりにも有名。 https://www.youtube.com/watch?v=2b8SvG0LRhk ポイント(1)This is クールジャパン!アニメーションの進化形態がここにある 制作は『進撃の巨人』を手がけたWIT STUDIO。『進撃の巨人』といえば立体機動装置のワイヤーアクションシーンがとんでもなく動いたことが記憶に新しいですが、『甲鉄城のカバネリ』もカバネとの殺陣を中心に負けず劣らずの動きっぷりで洗練されたアニメーションをお楽しみいただけます。 たしか2012年頃までは「作画崩壊」が話題になるアニメが時々出現した記憶があったのですが、2016年公開の『甲鉄城のカバネリ』については崩壊の「ほ」の字も見えないくらい、素人目に観てアニメーションが強烈な進化を遂げています。 どちらかといえば公開時点で話題になっていた記憶はそれほどなく、2022年のパチスロ導入から急激に話題になり始めた印象がある本作ですが、少なくとも最近アニメをあまり観ていない人は「2016年時点でアニメーションってここまで進化してたんだ!?」と驚くこと必至かと思います。 これはもう遊技機とか関係なく、普通に映像作品としての質が凄くて脳汁が出ます。 ポイント(2)『コードギアス 反逆のルルーシュ』とテーマが一緒!? また、本作を観る前に予備知識として押さえておいてほしいのが、シリーズの構成・脚本を担当しているのが先ほどご紹介した『コードギアス 反逆のルルーシュ』と同じ大河内一楼氏である点です。 https://twitter.com/NetflixJP_Anime/status/997020208844832768?ref_src=twsrc%5Etfw アニメ作品として、高速で移動する甲鉄城で行われるカバネとの戦闘シーンはたしかに魅力的ではあるのですが、物語のテーマとして「コードギアス」と同じく「父殺し」や「革命(※こちらは倒幕)」が通底している点も見逃せません。 なお『コードギアス』ではルルーシュによる"父殺し"は全50話の間に1回のみで済みましたが、こちらは12話の中で計2度成し遂げられました。正確には、"父殺しの後に生まれた父権主義(パターナリズム)の打倒"と呼ぶのが適切かもしれません。 https://www.youtube.com/watch?v=6Uvu5nC-IMw 立場の強い者が、当事者の自己決定をよそに「こうした方がお前のためになる」として選択肢を押し付けることをパターナリズム(父権主義)と呼びますが、これを跳ねのけることは痛快ですよね。 「7話以降からやや垂れた」と言われがちな本作ではありますが、「父殺し」もしくは「パターナリズムの打破」に重点を置いた作劇であることを意識すると、より深く本作を楽しめるのではないかと思います。 ポイント(3)『水星の魔女』に受け継がれる、物語の優しい終わり方 本作で脚本を担当した大河内一楼氏は、のちに『機動戦士ガンダム 水星の魔女』の脚本も手掛けることになります。 https://www.youtube.com/watch?v=eo0ZULsKMdo 『水星の魔女』は物語から離脱するキャラが控え目で良かった(と個人的には思う)のですが、『甲鉄城のカバネリ』も離脱するキャラが比較的少なかったように感じます。 大河内作品に限らず、ロボットもののアニメは自認がある人物も含めて「悪行を犯した人物は禊(みそぎ)として退場しがち」です。ただ『甲鉄城のカバネリ』では主人公勢が”ほぼ”死なずに済みます(ただし、あくまで”ほぼ”)。 また、2度目の"親殺し(パターナリズムの打破)"は、最終話にもう一人の主人公である少女・無名によって成し遂げられましたが、その際のセリフに作品のメッセージが凝縮されているように感じられました。 「私たちは、弱くても生きるよ」 「みんなで田んぼを作って、お米を食べる明日を目指すよ」「だから…ごめんね、兄様」 https://twitter.com/anime_kabaneri/status/748388117665615872 『コードギアス』において主人公のルルーシュは、ギアスの力によって他者に絶対服従を強いてきたことから、結果として自らの死で償う形でしか世界平和を実現することができませんでした。 一方で『甲鉄城のカバネリ』は、主人公たちが「カバネへの対抗策が確立されていない困難な状況の中でも、自分自身の弱さを受け入れたうえで生きていく」決断をします。 これ、『水星の魔女』の終わり方にも通ずるところがありませんか? 自身、すべての大河内作品を網羅しているわけではありませんが、少なくとも『カバネリ』と『水星の魔女』については、「親殺し」や「革命」をテーマにしたメッセージ性の強い作品を数多く手がけてきた大河内一楼氏が、視聴者に対して現実の世界とソフトに折り合い、着地するようメッセージを送った作品であると捉えています。 現実の社会で葛藤することは多々ありますけど、「自らを犠牲に!」とは考えずに「できることをするしかない」じゃないですか、結局さ。 ※ちなみに脳汁の話に戻ると、私は「あらすじ」を書いた時点で出尽くしました。エピボの「明けぬ夜」で流れる『ninelie』、マジで良いよね…。 https://www.youtube.com/watch?v=j9ypaPVzrbE ■おわりに:脳汁が出る作品はまだまだあるぞ 結果的に、大河内一楼氏が携わった作品を2本紹介することになりました。「あれがない、これがない」といった問題提起はもちろん受け付けたいと思います。なぜなら記憶とは、それを取り巻く環境に左右されるものだから…。 今回は私が考える衝撃的な作品を三つ厳選してご紹介しましたが、あなただけが丁寧に語れて、それでいて脳汁が出てしまうようなアニメもまだまだ存在するはずです。たとえば『交響詩篇エウレカセブン』『バジリスク~甲賀忍法帖~』がそうですね。これらの作品については他の方に稿を譲りたいと思います。この記事でご紹介した作品を是非ご視聴いただき、皆様がいっそう脳汁を出せますよう、失礼間違えました、魂の栄養としていただけますよう心より祈念しております!!

アリストテレス以来二千年! いまだに完成しない作劇論のセカイを語る。

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「アリストテレス以来二千年! いまだに完成しない作劇論のセカイを語る。」。海燕さんが書かれたこの記事では、作劇論への偏愛を語っていただきました! 突然だが、なにか物語を生み出してみたいと思ったことはないだろうか? それも、波乱万丈、読む者を大いに笑わせ、泣かせ、感動させ、ページをめくる手を止められないという思いにさせる最高の一品を。 ぼくはある。何度もあるのだが――ざんねんながら天なる神はぼくを地上に落とすとき、創作の才能を込め忘れたらしい。間抜けなやつ。その神さまのしょうもないミステイクのせいで、ぼくにはまるで物語を紡ぐ能力がない。 幾たびか書いてはみたのだが、どう考えても傑作には程遠く、もっともよくいって駄作と凡作の中間くらいといったところ。自分で読んでみてすらまったく面白くないので、自分以外の人はもっと面白くないに違いないと思える、そういうクオリティだ。 異世界転生でもして何かチートを授かったりしないかぎりこの現状は変えがたい。それでも、どうにかする術はないかと思っていろいろと調べてみて行き着いたのが、「作劇論」の世界。 いわゆる「ハリウッド脚本術」あたりから「ミステリの書きかた」、「ティーンズラブ小説の書きかた」といったものまで、片っぱしから読みあさった。 その結果、ぼくの筆力がどれほど向上したかというと、まあゼロではないかな、くらいなのだが、「物語の構成のしかた」について学ぶことそのものは面白かった。 じっさい、ある程度の才能がある人が読めばそれなりに役立つのかもしれない。たとえばベストセラー作家の乙一はハリウッド脚本術の「三幕構成」の技法をもとに小説を書いているという。 いったいあの魔法のように神秘な作品たちがハリウッド脚本術ごときでほんとうに書けるようになるものなのかどうか大いに疑問だが、まあ、「何とかと作劇論は使いよう」、天下の乙一がもちいればありきたりの脚本術も不思議な切れ味を示すものなのかもしれない。 気分だけは天才ストーリーテラーの凡人としてはただただ感心するよりほかない。いや、すべてが生まれ持った才能で決まるというわけでもないのだろうが……。 そういうわけで、今回はアリストテレス以来の「作劇論」について少し話をします。よろしく。 物語理論の歴史二千年は『詩学』に始まる さて、現代につらなる作劇論は、その博学アリストテレスの『詩学』を発端とする。現代の創作理論はそのほとんどがこの本の影響を隠然と受けていることになる。いやまあ、おそらくこれより古いテキストもあるのかもしれないが、ぼくは知らない。 とりあえず、この本が現存する物語の批評理論としては最古に近いもので、現代のストーリーテリング理論の基本となっていることはたしかなようだ。 「始まって」、「色々あって」、「終わる」、いわゆる三幕構成もこの『詩学』から来ているのだとか。 また、もし、あなたに少しでも文学や演劇についての知識があるようなら、ミメーシス(模倣)やカタルシス(浄化)といった言葉を耳にしたことがあるのではないだろうか。こういった概念も『詩学』伝来のものだという。 つまり『詩学』は、古代ギリシャのやたら偉大な悲劇についていまに語り伝え、現代の物語にすら甚大な影響をあたえている作品(集)なのだ。 ちなみに欠けている部分もあって、喜劇に関するところは失われたといわれている。だが、まあ、悲劇に関しての部分だけでも後世に大きな影を落としているわけである。 面白いのは、それから二千年以上もの時が経ち、古代ギリシャの栄光もことごとく失われ、いまや科学の時代が来たというのに、作劇論が完成するけはいはまったくないということだ。 いまなお、ある個人の天才を凌駕するほど完成度の高いストーリーテリングの方法論は存在しないと思う。 たしかに、ハリウッドやらロンドンやらではきわめて洗練された物語づくりのための理論を教育しているという話は聞く。それはほとんどサイエンスの域に達しており人間心理を的確に分析して「より面白い物語」を生むための具体的な方法論を導いているらしい。 が――そうはいっても、いまなお、その黄金の法則にのっとっているはずのハリウッドのシナリオですら、「よくこんなひどい話を考えられましたね?」といったレベルのものがまざってしまうことがじっさいにある。 その罪はその作品にかかわったビジネスマンやエコノミストにあり、シナリオライターにはないのかもしれないが、それにしても、この輝かしい21世紀に至ってなお、「面白い作品」を生み出すための方程式が明確にさだまっていないことは奇妙とも思える。 一作が何千億円というマネーを揺り動かすにもかかわらず、映画は結局、職人かたぎの監督や脚本家の個人的な資質に依存することをやめられていないのだ。 これは、すごいことではないだろうか。ぼくにはちょっと信じられないような話である。何が面白いのか、少なくとも商業的にヒットするのか、明確に見抜く魔法の目はいまだこの世に存在しないのだ。 何しろ、出版市場に冠たる大ベストセラーとなった『ハリー・ポッター』ですら、当初もちこまれた出版社では見向きもされなかったのだから。 「こういう作品がウケそう」という基準がまったくないわけではないだろうが、どうもあてにならないことはなはだしいといわなければならないようだ。 じっさい、記録的な商業的失敗作となった『ジョーカー』の続編のようなこともいまだに絶えない。 もし、ほんとうにハリウッド脚本術が科学の域にまで洗練されているなら、そのようなことは決して起こらないだろう。結局のところ、作劇論やら脚本術やらは、いまだに科学よりは錬金術のほうにより近いのではないだろうか。 世の作家や脚本家たちがいいかげんなことをしているといいたいわけではない。ただ、人知を尽くしたあとは天命を持つしかない仕事というものはあるもので、物語づくりもそれに近い領域のビジネスなのではないかと思えるのである。 「ヒーローズ・ジャーニー」理論さえも古びたものに とはいえ、大海原に乗り出すときはだれでも羅針盤がほしいものだ。たとえ、完全に正確な方角を指し示してくれるわけではないとわかっていたとしても。 そのために古色蒼然たる物語からひっぱり出してきたのが、たとえば、いわゆる「神話の法則」である。 これは「英雄の旅(ヒーローズ・ジャーニー)」などともいわれるもので、すべての神話に共通する(と主張されている)ある「法則」にのっとって物語を書けば、あら不思議、この何千年ものあいだほとんど進化していない人間の脳髄の「面白さ」を感じ取るポイントを絶妙に刺激し、過度に興奮させるという話。 脚本術の業界では、かの『スター・ウォーズ』はこの神話理論にのっとって物語を編み出し、みごと大ヒットになったと伝えられている。 作劇理論にはどこか錬金術めいて怪しげなところがあることはたしかかもしれないが、まったくのオカルトというわけではないことがここからもわかる。 しかし、千年一日のごとく変わるはずもない人間心理を捉えた神話由来の「法則」といえど、やはり完璧ではありえない。 この「法則」にしたがって物語を書くとたしかに壮大な神話的キャラクターやらストーリーを生み出すことはできるようなのだが、いっぽうで繊細な人間的生々しさを欠くことになってしまうようでもあるのだ。 『スター・ウォーズ』はまさに「現代の神話」ともいうべき魅力的な一作ではあるが、同時に、そうであるがゆえの心理的なディティールの甘さをも備えている。 そして、シリーズが「前日譚三部作」、「後日譚三部作」と続くにつれ、その神話的なスケールの大きさが失われて行っていることはだれの目にもあきらかなところだろう。 これは結局、現代の観客の目に神話的スケールの物語が物足りなく感じられるからこそそうなっていっているわけで、必ずしもジョージ・ルーカスなどが無能だということを意味しない。 アリストテレスもシェイクスピアも、完璧な作品を生み出す具体的な方法論を書き残してくれたわけではないから、こういう事態が往々にして起こるわけである。 もちろん、映画にお金を出す側としては確実にその資金を回収できなければ困るわけで、そのために膨大な金額をつぎ込んで優秀なシナリオライターを養成しているのだろう。 その結果、たしかにハリウッドの脚本はだいぶソフィスティケーションされていて、最近、そこまでひどい映画を観る機会は少なくなっているように思える(恐ろしいことに、先述したように、まったくのゼロにはならないわけだが)。 とはいえ、くりかえすが、そのハリウッドですら確実に素晴らしく感動的な物語を生み出せるというわけではない。また、鵜の目鷹の目でものすごいアイディアをさがしてはいるだろうが、どうにも凡庸な作品をなくしてしまうことには成功していないようでもある。 それがエンターテインメントなのだ、といえばそれまでだ。しかし、なぜこのようなことになっているのだろう? 「幼年期の終り」は来るか? ひとつには、もちろん、常に時代は変わりつづけていて、人の心もそれに合わせて変化していっているからだろう。 ストーリーテリングの方法論にはもちろん普遍的なところもあるが、それがすべてとはとてもいえそうにない。ある社会において爆発的にヒットする作品を生み出すためには、どうしてもその社会にアジャストした方法論が必要とされる。 ただ「普遍的」なだけでは十分でなく、それに加えて「同時代的」である必要もあるのだ。 仮に、批評家ならだれもが認めるような名作を生み出すことに成功したとしても、それが時代を捉えていなければ、商業的には鳴かず飛ばずに終わるということもありえないわけではない。 わずかな発表時期の違いによってビジネスチャンスを失ってしまった傑作はいくらでもあることだろう。その反対に、まさにその「時代の潮目」を読み切って、あるいは偶然にその流れに乗って大ヒットした作品もあるはずだ。 そのことは、たとえば数年前の『鬼滅の刃』のブームを思えばだれにでもわかるのではないだろうか。 『鬼滅の刃』は、もちろんきわめて優れた作品ではある。しかし、ちょっと時代が違っていたら、あそこまでのウルトラスーパーヒットにはならなかったはずだ。 結局、ヒット作には「時代と寝る」一面がどこかに必要なのであって、ただ普遍的な王道の面白さというだけでは十分とはいえないのである。 そして、もうひとつは、小説であれ映画であれ、あるいはマンガやアニメ、演劇などであれ、新しく世に出るストーリーには何らかの「未見性」が求められるからだろう。 つまり、どんなに優れたストーリーであっても、すでに世の中で先行する作品が知られていれば、それは「二番煎じ」としか認識されない。そのため、あとに発表された作品ほど、オリジナリティを発揮するために苦労することになる。 ウィリアム・シェイクスピアはたしかに破格の天才物語作家だった。しかし、かの大劇作家が現代に生きていたとしたら、やはりまったく新しい物語を生み出すためには苦労するのではないだろうか? シェイクスピアの時代から数百年、そのあいだに膨大な物語が生み出され、「まったくあたらしい物語のアイディア」の可能性はより少なくなっているのだ。 つまりは、ストーリーを語るとはどうしようもなく「差異化」のゲームなのだということ。「面白い」だけでは十分ではなく、「いままで見たことがある他の作品とは違う面白さで面白い」必要があるわけである。 これでは、どんなに確実な創作の方法論を確立したとしても、あっというまに古びてしまうことが道理だろう。 じっさい、「神話の法則」はいまでは非常に古く感じるし、そのあとに生み出された、たとえば「セーブ・ザ・キャットの法則」あたりもいまではちょっと古くさい。 ようするに、物語づくりの方法論は、たまたま錬金術にとどまっているわけではなく、わけあって科学に昇格できずにいるということなのだ。 もちろん、創作は魔法ではない。ちゃんとそこには理論もあれば、手順も(ある程度のところまでは)さだまっている。しかし、しょせんそれが科学になる日は永遠に来ないのかもしれない。 ある方法論が明快に確立されたら、観客はその方法論を前提に作品を見るわけで、作劇論の洗練とは、そうとうにたちの悪いいたちごっこというより他ならない。 少なくともいまのところは、作家や批評家の怪しげな「カン」以上にあてになるやりかたは存在しないように思える。 だが、逆にいえば、だからこそ創作は、芸術は面白いともいえる。いつの日かAIがこの人間の限界を打ち破り、無限に新鮮な物語を生み出す日が来るかもしれないが――とりあえず、それはいまではない。 いつかは物語を作り、あるいは物語について語るそのやりかたがアリストテレスの影響から完全に抜け出す日は来るのだろうか? その真実はわからないが、とりあえずぼくはその日がなるべく遠くであるといいなと思っている。 あしたよりあさって、あさってよりしあさって、AIよ、どうかぼくたちからおもちゃを取り上げないでくれ。ぼくたち人類はまだ幼年期にあって、もうしばらくのあいだは物語で遊んでいたいのだから。

【いまからでも間に合う!】『薬屋のひとりごと』徹底解説!薬学×宮廷ドラマの魅力を語る【いままでのおさらい】

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「【いまからでも間に合う!】『薬屋のひとりごと』徹底解説!薬学×宮廷ドラマの魅力を語る【いままでのおさらい】」。森佳乃子さんが書かれたこの記事では、『薬屋のひとりごと』への偏愛を語っていただきました! 薬と毒に精通した少女・猫猫(マオマオ)が、後宮で巻き起こる不可解な出来事を解決していく『薬屋のひとりごと』。その見事な推理力と魅力的なキャラクターが多くのファンを虜にしています。この記事では、作品を詳しく解説するとともに、物語の感想や登場人物の魅力、世界観の深さに迫ります。 『薬屋のひとりごと』とは? 物語の概要と作品の魅力 (出典:ABEMA) 『薬屋のひとりごと』は、日向夏氏によるライトノベルで、架空の中華風帝国の後宮を舞台にしたミステリー作品です。主人公の猫猫(マオマオ)は、薬師としての知識を活かし、後宮で次々と起こる不可解な事件を解決していきます。本作は、ミステリー要素に加え、宮廷の陰謀やロマンスも絡み合う独特な作風が魅力。緻密なストーリー展開とリアルな薬学描写が高く評価され、幅広い層に支持されています。 小説から漫画、アニメへ―『薬屋のひとりごと』の広がり 本作は、もともと「小説家になろう」で連載され、2014年に書籍化されました。その後、スクウェア・エニックス版と小学館版の2種類の漫画が連載され、どちらも累計発行部数が高く評価されています。さらに、2023年にはアニメ化され、緻密な作画と原作に忠実な脚本でファンを魅了しました。ライトノベル、漫画、アニメと幅広く展開されており、多くの人が楽しめる作品になっています。 なぜ今、大人気?ファンを魅了する独特の世界観 『薬屋のひとりごと』は、後宮を舞台にしながらも、ただの宮廷ロマンスではなく、ミステリーや薬学の要素が加わった新感覚のストーリーが特徴です。主人公の猫猫は、恋愛よりも薬と謎解きが何より好きな異色のヒロインで、作者がそれを意図したのか「猫猫」との名前の通りちょっとツンで冷静な態度と鋭い推理が読者の心を掴んでいます。また、精緻に描かれた美しくも激しい後宮の権力争いや歴史的背景がリアリティを増し、大人でも楽しめる作品となっています。 宮廷×薬学融合!唯一無二のジャンルとは 本作の最大の特徴は、「宮廷ドラマ」と「薬学ミステリー」の融合です。後宮内の権力闘争や陰謀が絡む中で、猫猫が薬師としての知識を使って事件を解決する展開は、他の作品にはない魅力を持っています。また、実際の薬学や毒の知識をベースにしたストーリーはリアルで、専門的な内容でありながら、エンターテイメントとして楽しめるバランスの良さも評価されています。 主人公・猫猫とは何者か? 謎多き少女の魅力に迫る (出典:ABEMA) 猫猫(マオマオ)は、薬師の父に育てられた少女で、幼い頃から薬や毒に対する深い知識を持っています。好奇心旺盛で冷静沈着な性格をしており、誘拐されて後宮に売られても動じることなく下働きをこなしていました。 しかし、後宮内で皇帝の子どもたちが次々と病に倒れる事件が発生し、彼女の薬学知識を活かして原因を突き止めたことで、物語が大きく動き出します。物語のもう一人の核となる人物である壬氏(ジンシ)が猫猫を皇帝の寵妃・玉葉妃の侍女としたのです。 これ以降、猫猫は後宮で女官として仕えながら、さまざまな事件を解決に導いていきます。猫猫は一見クールですが、意外とお節介な一面や皮肉屋な言動があり、そんなギャップが多くの読者に愛される理由のひとつです。 天才的な薬学知識と冷静沈着な性格 猫猫の最大の特徴は、その天才的な薬学知識です。幼い頃から毒に慣れ親しみ、実験と称して自ら毒を摂取して耐性をつけるなど、常識外れの行動を取ることもあります。また、事件が起こると周囲の状況や証拠を冷静に分析し、的確な推理を展開します。 しかし、本人はあくまで「薬師」としての興味で動いており、権力争いには興味がない点もユニークです。そのため、思わぬ形で後宮の陰謀に巻き込まれつつも、持ち前の冷静さで乗り切っていきます。 好奇心旺盛で皮肉屋!?猫猫のユニークなキャラクター性 猫猫は、物事を合理的に考える性格ですが、強い好奇心を持ち、面白そうなことにはつい首を突っ込んでしまいます。そのため、危険な事件に関わることも多く、しばしばトラブルに巻き込まれます。 また、彼女は毒舌で皮肉屋な一面があり、周囲の権力者や美形の男性にも遠慮なく辛辣な言葉をぶつけることが特徴です。特に、後宮の上位者である宦官・壬氏に対しても、飾らずズバズバと物を言うため、彼の興味を強く引くことになります。でも見ていてちょっとひやひやします……。 後宮で巻き込まれる事件と、彼女の変わらぬ信念 猫猫は、後宮の様々な事件に関わることになりますが、彼女自身はあくまで「薬師」としての立場を貫いています。宮廷の権力争いには興味を持たず、誰かを陥れようとすることもありません。ただし、自分の信念に従い、人の命を救うことには全力を尽くします。 例えば、おしろいに含まれていた鉛で中毒になり死にかけた梨花(リファ)妃のため、禁止されていたおしろいを妃に使い続けていた侍女を平手打ちし「なんでこれが禁止されたかわかってんのか!」と一喝。 その後、死の淵をさまよう梨花妃を懸命の看病で生還させました。しかし、梨花妃が意識を取り戻した時、猫猫は静かに梨花妃のもとを去り、恩を売ろうとはしませんでした。事件の真相に気づいてもそれを利用せず、純粋に解決しようとする姿勢が、多くの人々の心を動かし、猫猫を後宮の妃たちの人気者にしていくのです。 猫猫の愛称として壬氏の従者である高順(ガオシュン)が呼ぶ「小猫(シャオマオ)」は「マオちゃん」のような意味です。彼女が愛されていることがわかります。 美しき宦官・壬氏の正体とは? 彼の魅力と猫猫との関係 (出典:ABEMA) 後宮で高い地位にある美貌の宦官・壬氏は、物語の重要人物の一人です。端正な顔立ちと優雅な振る舞いを持つ彼は、後宮に住まう多くの女性たちを虜にする存在ですが、猫猫に対してだけは特別な興味を持っています。 彼女が事件を解決するたびに、彼はますます猫猫に惹かれていき、やがて執着とも言えるような感情を抱くようになります。猫猫はといえば壬氏にはまったく興味がなく、隙あらば言い寄ろうとする壬氏を軽くあしらいます。 優雅さと美貌の持ち主、壬氏の正体 壬氏は、後宮で絶大な権力を持つ宦官のひとりですが、その立ち居振る舞いはまるで皇族のように洗練されています。壬氏が通れば後宮に使える美しい女性たちの誰もが振り向き、目はハート。優雅で穏やかな雰囲気を持つ一方で、内心では鋭い観察眼を持ち、冷徹な判断を下すこともあります。 そのことから、壬氏が単なる後宮の「番人」ではなく、高貴な生まれであり、かつ重要な任務についていることをうかがわせます。壬氏は、実は現皇帝の弟であり、東宮となることを避けるため自ら宦官となった人物。男性性を抑えるために毎日薬を飲んでおり、それがかなりまずいらしい。事情によって後宮にとどめられているらしいことが猫猫とファンに示される場面があります。 猫猫に執着する理由とは? 二人の関係の行方 壬氏は、猫猫の賢さと無頓着な態度に強く惹かれ、何かと彼女に絡んできます。しかし、猫猫は美しい男に興味がないどころか、むしろ警戒しており、彼の甘い言葉も軽くいなしてしまいます。むしろ、壬氏が近寄ってくると逃げ出してしまうほど。なんてもったいない! そのため、壬氏は彼女の関心を引くために様々な手を打ちますが、猫猫は一向に振り向きません。この微妙な関係が、読者にとっても大きな見どころの一つとなっています。むずキュン……。 壬氏の隠された過去と、その秘密に迫る 壬氏の正体は、物語が進むにつれて徐々に明らかになっていきます。彼がなぜ宦官として振る舞っているのか。彼の出自が明らかになったとき、猫猫との関係にも変化が訪れます。彼の秘密が物語の核心のひとつとなっており、多くの読者がその展開に注目しています。壬氏は東宮の誕生を願い、皇帝と寵妃のために媚薬を作るよう猫猫に依頼しました。 物語を彩る個性豊かな登場人物たち (出典:ABEMA) 『薬屋のひとりごと』には、主人公・猫猫や壬氏を取り巻く、魅力的なキャラクターたちが登場します。後宮の寵妃たちや宦官、武官、皇帝など、それぞれが物語に重要な役割を果たしており、猫猫の推理劇に大きな影響を与えます。また、彼らの過去や思惑が交錯することで、後宮の陰謀や権力闘争がより複雑なものとなっています。個性豊かな登場人物たちが織りなすドラマが、『薬屋のひとりごと』の大きな魅力の一つです。 猫猫とふたりの父・羅漢と羅門―謎多き人物の過去 (出典:ABEMA) 羅漢(らかん)は、猫猫の実の父親であり、宮廷の軍隊を統率する優秀な軍人です。その才能から「軍師」と呼ばれるほどの人物ですが、片メガネの奥から人をにらみつけるように見るような癖の強さがあります。羅漢は緑青館(ろくしょうかん)の妓女・鳳仙(フォンシェン)との間に生まれた猫猫が後宮に仕えていることを知り、接触を図りますが猫猫に拒まれます。 猫猫とは長らく疎遠でしたが、物語が進むにつれて、彼が宮廷に関わる理由や、猫猫の出自に関する秘密が明らかになっていきます。登場時は嫌味な印象でしたが、第1期終盤で猫猫の実母である妓女・鳳仙との悲恋と純愛について知った時、羅漢がどうしようもなく愛おしく思えたのは私だけではないでしょう。23話「鳳仙花と片喰」とそれに続く24話「壬氏と猫猫」はファンの間で人気の高いエピソードです。 羅漢の恋 (出典:ABEMA) 猫猫の養父となった羅門(ルォメン)は御典医を務めたこともある天才的な医師です。彼は猫猫の幼少期から薬学を叩き込み、彼女の知識の基礎を作った人物ですが、その存在は謎に包まれています。物静かで多くを語らぬ男は、猫猫を静かな愛情で見守ります。 皇帝と寵妃たち―後宮に渦巻く権力争い 後宮には、皇帝の寵愛を受ける妃たちが存在し、彼女たちの間では常に権力争いが繰り広げられています。皇帝の子を産むことが、妃たちの地位を確立する最も重要な要素であり、猫猫はこの争いに巻き込まれる形で多くの事件を解決していきます。特に、上級妃である玉葉妃(ぎょくようひ)や里樹妃(りじゅひ)は、それぞれ異なる立場から物語に深く関与し、猫猫とも特別な関係を築いていきます。 事件の鍵を握る脇役たち――それぞれの立場と影響 『薬屋のひとりごと』には、多くのサブキャラクターが登場し、それぞれが物語の伏線や謎解きの鍵を握っています。猫猫の友人である侍女・小蘭(シャオラン)や、壬氏の腹心である高順(ガオシュン)、また宮廷内の様々な役職を担う宦官や武官たちが、物語の進行に大きく関わります。彼らの背景や目的が絡み合うことで、後宮内の複雑な人間関係が描かれ、ミステリー要素に深みを与えています。 『薬屋のひとりごと』の主要エピソードを徹底解説! (出典:ABEMA) 物語の中で特に印象的なエピソードをピックアップし、その魅力や重要な伏線を解説します。猫猫の成長や、壬氏との関係、後宮の陰謀がどのように絡み合っていくのかに注目していきましょう。 猫猫、後宮へ売られる―物語の幕開け 物語は、猫猫が人さらいによって後宮に売られるところから始まります。もともと自由気ままに薬屋として暮らしていた彼女は、突然の環境の変化にも動じることなく、下働きとして日々を過ごしていました。しかし、後宮内で皇帝の子供たちが次々と体調を崩す異変が起こり、猫猫の薬学知識が試されることになります。彼女が見つけた「毒」の痕跡が、この後の波乱を予感させる重要な要素となります。 皇帝の御子たちの病―初めての謎解き 猫猫は、皇帝の子供たちの病が「ある特定の毒」によるものだと突き止めます。母子ともに「頭痛、腹痛、吐き気」の特徴。妃のげっそりと痩せた体。彼女はその知識を活かし、原因がおしろいに含まれる「毒(鉛)」だと突き止め、玉葉妃にこっそり伝えようとします。しかし、猫猫の行動だと知られ、元薬師としての知識を壬氏に買われた猫猫は、玉葉妃の毒見役として仕えることになります。 このできごとをきっかけに「悪目立ちして命を狙われたくない」との猫猫の思惑とは裏腹に、後宮の勢力争いに巻き込まれる大問題に発展していきます。猫猫の鋭い洞察力と知識が交錯するこのエピソードは、物語の本格的な幕開けとなります。 毒殺未遂事件と猫猫の推理力 宮廷内では、陰謀と策略が渦巻いており、毒を使った暗殺未遂事件が頻発します。猫猫は、被害者の体調や周囲の状況から瞬時に毒の種類を特定し、犯人の目的を推理します。しかし、彼女の知識は時に「余計なことを知りすぎた」と見なされ、命を狙われることも……。猫猫の冷静な推理と、生き延びるための駆け引きが展開されるエピソードは、読者をハラハラさせる要素の一つです。 壬氏との出会いと猫猫へのむずキュンな片思い 猫猫に対しては思いっきり3枚目になってしまう壬氏サマもたまらん。(出典:ABEMA) 壬氏は、猫猫の推理力と無邪気な毒舌に興味を持ち、彼女を特別扱いするようになります。彼は何かと彼女をそばに置こうとしますが、猫猫は彼を「女たらしの美形」として警戒。何かと理由をつけて猫猫のもとにやってくる壬氏に猫猫はそっけなく、「また来たのか」「キモッ!」と冷たくあしらいます。 園遊会で簪(かんざし)を贈られることが、愛の告白であることも知らなかった猫猫。多くの女官たちが壬氏の簪を与えられるのは自分だとばかりに気持ちを高ぶらせる中、「ん。やる」とひとことだけ言って猫猫に簪を差し出した壬氏サマの不器用さがたまりません。中学生か。 猫猫に振り回されてばかりいる壬氏。「マゾか」と言われながらも猫猫に対する壬氏サマの愛は止まりません。 宮廷内の陰謀と猫猫が直面する危機 後宮の陰謀は深く、猫猫は次第により大きな秘密に巻き込まれていきます。権力争いの中で彼女が知るべきでなかった事実を知ってしまうことで、殺人の濡れ衣を着せられ、後宮から追放されることにもなります。 第1期後半では、後宮から追放され緑青館に戻っていた猫猫ですが、大金を払って身請けした壬氏の屋敷でかくまわれ、壬氏の身の回りの世話係として再び後宮に戻ってきます。 作品に散りばめられた「薬学」と「毒」の知識 (出典:ABEMA) 『薬屋のひとりごと』の大きな魅力のひとつは、リアルな薬学や毒に関する知識が巧みに物語に組み込まれている点です。主人公・猫猫は幼い頃から薬や毒に親しんでおり、その知識を駆使して宮廷内の事件を解決していきます。本作では、実際に存在する毒や治療法が多数登場し、それがストーリーの伏線やキーアイテムとして機能しています。 『薬屋のひとりごと』で登場する実際の薬と毒 本作では、架空の世界ながら歴史的に実在した毒や薬草が多く登場します。たとえば、以下のようなものが劇中に登場し、重要な役割を果たしています。 【CASE1】鉛:鉛入りのおしろいは肌を美しく見せる、との理由で広く使用されていました。第一話で皇帝の御子たちが次々と命を落とし、「呪い」ではないかと噂の元になったのは鉛が使用されたおしろいが原因でした。(1話) 【CASE2】カカオ:猫猫は壬氏に「媚薬」を作るようにと命じられ、チョコレートを作ります。カカオはまだ手に入りにくい高級品でした。妓館で身に付けた知識をもとに、猫猫が作ったチョコレートは効果てきめん。つまみ食いした玉葉妃の侍女たちをトロトロにしてしまいました。(2話) 【CASE3】シャクナゲ:猫猫が初めて事件を解決したとき、シャクナゲの枝に巻き付けた布に警告文を書いて玉葉妃に渡しました。メッセージは「おしろいは毒。赤子に触れさせるな」と書かれたものでした。(1話) また、野営を張っていた軍の中で「毒殺事件」が起きたとき、解決に導いたのも猫猫の毒についての知識でした。この時にも猫猫はシャクナゲを例に説明します。シャクナゲは後宮内で飾られていた一般的な花でしたが葉に毒があります。グラヤノトキシンという有毒な成分で、誤って口にすると下痢や嘔吐、血圧低下や痙攣、めまいなどを起こすことがあります。 「身近な植生でも枝や根に毒のあるものがあり、生木を燃やすだけでも毒になるものも」。この時には、壬氏に判断を仰いだ懸命な軍隊長のおかげで、村人が命拾いをしたのでした。(2話) 【CASE4】曼陀羅華:チョウセンアサガオ。3世紀ごろの中国で麻酔薬として使われていたと言われています。壬氏暗殺に暗躍した官女が仮死状態となって後宮を脱出するために用いられたと考えられている薬草です。その後、この下女は行方不明となっており、伏線が回収されるのかも見どころです。(20話)【CASE5】カエンタケ:猛毒を持ち、食べることはおろか触れるだけでも強い炎症を起こすことで知られています。下級妃同士の嫉妬から起きた毒殺事件で用いられたと考えられています。(27話) これらの毒や薬草が物語の中で巧みに用いられ、ミステリー要素を深めるスパイスになっています。 猫猫の知識はどこから?歴史に基づくリアルな描写 (出典:ABEMA) 猫猫の薬学知識は、単なるフィクションではなく、歴史的な医薬の知識に基づいています。本作は、中国の伝統医学(漢方)の概念を取り入れており、実際に古代中国で使われていた薬草や治療法が参考にされています。 また、猫猫が薬草を扱う際の調合方法や毒の中和など、実際の薬学に基づいたリアルな描写が魅力です。特に、「毒をもって毒を制す」考え方が劇中にたびたび登場し、薬と毒の紙一重の関係が描かれています。 日本の伝統医学と漢方の影響とは? 『薬屋のひとりごと』は、中華風の世界観を持つ作品ですが、実は日本の伝統医学や薬学の影響も見られます。例えば、漢方薬の概念や調合法は、日本の江戸時代にも発展した医学の知識と通じるものがあります。また、毒見役としての猫猫の役割は、日本の歴史にも見られる文化であり、宮廷内の食事管理に関する描写は非常にリアルです。 このように、薬学・毒物学の知識をベースにした緻密な設定が、本作のミステリー要素をより奥深いものにしています。 『薬屋のひとりごと』が映し出す宮廷社会のリアル (出典:ABEMA) 本作の舞台である後宮は、歴史的に見ても非常に特殊な社会でした。皇帝の寵妃たちがしのぎを削り、権力争いが日常茶飯事の世界。そんな後宮の仕組みや、そこに生きる女性たちの立場を深掘りすると、『薬屋のひとりごと』の物語がより奥深く理解できます。 後宮とは何か?実際の歴史と作品の設定 権力争いの温床:妃たちは、皇帝に寵愛されることで自分や実家の地位を確立しようとし、熾烈な争いを繰り広げます。 女性だけの閉鎖空間:後宮には皇帝の寵愛を受ける妃たちが暮らし、外部との接触が制限されていました。 宦官(かんがん)の存在:後宮には男性がほとんど入れないため、唯一の例外として宦官と呼ばれる去勢された男性が仕えることが許されていました。壬氏もその一人として登場しますが、彼には大きな秘密があります。 後宮とは、皇帝の妃や女官たちが暮らす宮廷内の区域を指します。『薬屋のひとりごと』の舞台となる後宮も、実際の歴史的な後宮制度に基づいて描かれています。 後宮に使える女性たちの世話係でもある「宦官」は、世界各国の宮廷に見られる制度です。『薬屋のひとりごと』は歴史的な宮廷制度を巧みに取り入れ、リアリティをもたせています。 宦官とは、去勢されることで後宮に仕えることを許された男性のことです。歴史的には、中国の宮廷では宦官が権力を握ることもあり、時には皇帝すら操るほどの影響力を持った者もいました。 宦官制度とその実態―壬氏はどこまで本物なのか? しかし、壬氏は「宦官」として振る舞っていますが、実際は違うのではないか?との疑惑が物語の鍵となっています。彼の正体が明らかになるにつれて、物語はより深い陰謀へと発展していきます。後宮に入ることが許されるのは宦官と「最も高貴な血筋の者だけ」と、1話の猫猫のセリフで示されます。壬氏は後者であり、自ら望んで宦官に降格した人物です。 壬氏はなぜ宦官となる道を選んだのか。そのなぞもまた物語が進むにつれて明かされていくことになります。 女性の生きる道―寵妃たちの運命と猫猫の立場 後宮に生きる女性たちにとって、皇帝の寵愛を受けることは、唯一の生き残る道でした。しかし、それは同時に激しい競争と危険を伴うもので、皇帝に見捨てられれば命を落とすことすらある過酷な世界です。 後宮で下働きとして働く女性が皇帝に見初められて下級妃となることもある世界。しかし、猫猫は妃になることに興味を持たず、あくまで薬師としての人生を貫こうとします。ところがそんな彼女だからこそ、後宮の権力争いの渦中に巻き込まれてしまうのです。 『薬屋のひとりごと』はミステリー作品としても優秀? 『薬屋のひとりごと』は単なる宮廷ドラマではなく、ミステリー作品としても非常に優れた要素を持っています。 緻密な伏線と謎解き:事件が起こるたびに、猫猫の鋭い推理が光ります。 心理戦と駆け引き:毒殺未遂や陰謀が絡み合い、真相にたどり着くまでの過程がスリリング。 専門知識を活かした説得力:薬学や毒物に関するリアルな知識が、推理の説得力を増しています。 このように、物語の展開はミステリー作品としての完成度も高く、読者を飽きさせません。 『薬屋のひとりごと』の今後の展開は? (出典:ABEMA) 『薬屋のひとりごと』は、原作小説がまだ進行中であり、物語の展開がさらに深まっていくことが期待されています。猫猫の薬学の知識や後宮での立場、壬氏との関係がどのように変化していくのかが、大きな見どころです。 また、未解決の伏線や新たな事件が登場することで、さらなるミステリー要素が加わることが予想されます。今後の展開を考察しながら、どのような物語が待っているのかを探っていきましょう。 壬氏と猫猫の関係はどうなる? 壬氏は猫猫に対して特別な関心を抱いており、その感情が単なる興味や執着ではなく、もっと深いものへと変化していることが伺えます。しかし、猫猫は壬氏に対して特に恋愛感情を抱いておらず、むしろ彼の行動に戸惑うことが多い状況です。 しかし、今後の展開次第では、猫猫が壬氏の正体を知り、彼の過去や本当の目的を理解することで、二人の関係性が大きく変わる可能性があります。 また、猫猫は現在のところ後宮での立場を守りながら生きていますが、壬氏との関係が公になれば、後宮内の勢力争いにも影響を与える可能性があります。二人の関係がどのように進展するのか、読者の間でも大きな注目を集めています。 最新話から読み解く今後の展開予想 原作の最新話では、猫猫が後宮内で新たな事件に巻き込まれる展開が続いています。特に、新たな毒殺事件や、皇帝の周囲で起こる異変などが今後の鍵となる可能性があります。 また、猫猫自身の立場が変化する兆しもあり、彼女が単なる薬師としてではなく、後宮や宮廷全体に影響を与える存在になるかもしれません。彼女の知識や推理力がどこまで評価され、利用されるのかも見どころのひとつです。 さらに、壬氏や羅漢以外のキャラクターたちの動向にも注目が集まっています。新たな登場人物が加わることで、物語の展開がさらに複雑になり、今後も予測不能な展開が続くことが期待されます。 『薬屋のひとりごと』をもっと楽しむために 『薬屋のひとりごと』は、小説、漫画、アニメと幅広いメディアで楽しむことができる作品です。それぞれのメディアごとに異なる魅力があり、より深く物語を楽しむためのポイントを紹介します。 原作小説・漫画・アニメ、それぞれの違いと魅力 ・小説版:詳細な心理描写や、伏線の深みが楽しめる。猫猫の内面の葛藤や推理の過程がより鮮明に描かれている。 ・漫画版:スクウェア・エニックス版と小学館版の2種類があり、それぞれ異なるアートスタイルで楽しめる。ビジュアルとして世界観がより伝わりやすい。 ・アニメ版:動きや音声が加わることで、物語の臨場感が増す。特に、キャラクターの表情や声優陣の演技が作品の魅力を引き立てる。 【まとめ】 『薬屋のひとりごと』は、宮廷ミステリー、薬学、ロマンスが融合した唯一無二の作品です。リアルな薬学知識や、緻密な伏線、魅力的なキャラクターたちが織りなす物語は、多くのファンを惹きつけ続けています。 今後の展開がどのように進むのか、猫猫の推理は?壬氏との関係は変わるのか?―これからも『薬屋のひとりごと』から目が離せません! ぜひ、小説・漫画・アニメを通じて、この魅力的な物語を堪能してください。

アニメヲタクが語る!2025年夏アニメでどれを観るべき?初心者向けおすすめ作品一覧

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「アニメヲタクが語る!2025年夏アニメでどれを観るべき?初心者向けおすすめ作品一覧」。トイアンナさんが書かれたこの記事では、2025年夏公開アニメへの偏愛を語っていただきました! こんにちは、アニメヲタクになって25年目を迎えた、ライターのトイアンナです。非ヲタの友人と話していると「アニメが多すぎて、どれを観るべきかわからない」と、よく言われます。確かに。日本では、子供向けアニメも含めれば年間100作品以上のアニメがリリースされます。そのため、非ヲタからすれば「何が何やら」となるのは当然のことでしょう。 というわけで、今回は2025年の夏に始まる「アニメ初心者が観て楽しめる作品」をピックアップし、その魅力をぞんぶんに解説します! 2025年夏に公開されるアニメは27作品 まず、2025年夏に公開予定の作品は、以下の通り。そのなかで、タイトルに★をつけた作品が、この記事で「初心者にもおすすめできる、2025年夏に公開予定のアニメ作品」です。 2025年夏に公開予定のアニメ作品一覧(あいうえお順) ★雨と君と うたごえはミルフィーユ おそ松さん(第4期) 怪獣8号 第2期 彼女、お借りします 第4期 クレバテス-魔獣の王と赤子と屍の勇者- ゲーセン少女と異文化交流 cocoon ★地獄先生ぬ~べ~ CITY THE ANIMATION 白豚貴族ですが前世の記憶が生えたのでひよこな弟育てます ★ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される 盾の勇者の成り上がり Season 4 ダンダダン 第2期 強くてニューサーガ 出禁のモグラ 転生したら第七王子だったので、気ままに魔術を極めます 第2期 ★桃源暗鬼 ニャイト・オブ・ザ・リビングキャット ばっどがーる BULLET/BULLET 光が死んだ夏 ふたりソロキャンプ My Melody & Kuromi ★水属性の魔法使い 勇者パーティーを追放された白魔導師、Sランク冒険者に拾われる ~この白魔導師が規格外すぎる~ わたしが恋人になれるわけないじゃん、ムリムリ!(※ムリじゃなかった!?) いわゆる、ヲタクが注目するのは「人気作の続編」ですが、普段からあまりアニメを視聴しない層にとって、続編アニメはとっつきづらいものです。しかも、シリーズ作品はSNSで検索しようものなら公開済みエピソードの容赦ないネタバレにあいます。 そこで、この記事では2025夏アニメの中でも「新しく始まるアニメ作品」のみピックアップしました。 *本稿のアイキャッチ画像の引用元:ORICON NEWS プレスリリース 2025年夏公開のおすすめアニメ【1】雨と君と 出典:『雨と君と』アニメ公式サイト 作品名雨と君と放送形態TVアニメスケジュール2025年7月予定キャスト藤:早見沙織ミミ:鎌倉有那レン:佐藤聡美クラウゼ・エラ・希依:湯本柚子スタッフ原作:二階堂幸監督:月見里智弘シリーズ構成:待田堂子キャラクターデザイン:大和田彩乃アニメーション制作:レスプリ ある雨の日。ずぶぬれになった女性・藤は、捨て犬と出会います。フリップを振り、折り畳み傘を藤に差し出してまで「自分を拾って!」とアピールする姿勢に負け、一緒に暮らし始めた彼女。しかし、その犬はよく見ると「わんこ」ではなさそうで……。 出典:原作『雨と君と』第一話 原作の愛らしい犬……ではないたぬきの賢さとかわいさにほっこりします。何しろたぬきなので、賢くても「人を化かす生き物だしなあ」と許せてしまう設定もいいですよね。 本作はもともとはXで公開されていた漫画のため、拡散されて閲覧したことがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。原作がショートストーリーなので、おそらく本編も1話15分未満の短い作品になる可能性が高いと思われます。 つまり、アニメにじっと向き合わずとも、家事をしながら、仕事の息抜きに楽しめる可能性大。大人の疲れをすっと癒してくれる、ほっこりアニメとして、のんびり楽しめるのではないでしょうか。 制作会社は『コウペンちゃん』『アニメ カピバラさん』などを手がけてきたレスプリ。このジャンルのマイスターが手がけるとあって、期待大です。さらに、声優は『鬼滅の刃』で胡蝶しのぶを演じているベテラン声優・早見沙織さんとあって、ヲタクにも嬉しい作品となっています。 2025年夏公開のおすすめアニメ【2】地獄先生ぬ~べ~ https://www.youtube.com/watch?v=h5BdLs3rARw 作品名地獄先生ぬ~べ~放送形態TVアニメ テレビ朝日系列スケジュール2025年7月予定キャスト鵺野鳴介:置鮎龍太郎立野広:白石涼子稲葉郷子:洲崎綾細川美樹:黒沢ともよ木村克也:岩崎諒太栗田まこと:古城門志帆高橋律子:遠藤綾ゆきめ:加隈亜衣玉藻京介:森川智之スタッフ原作:真倉翔(集英社『週刊少年ジャンプ』連載)漫画:岡野剛監督:大石康之助監督:山田史人シリーズ構成:大草芳樹キャラクターデザイン:芳山優サブキャラクターデザイン:高橋敦子プロップデザイン:伊藤依織子妖怪デザイン:田中宏紀、きじまるアクション監督:加々美高浩、芳山優美術設定:平澤晃弘美術監督:春日美波色彩設計:野地弘納3DCGディレクター:吉良柾成画面設計:田村仁撮影監督:平本瑛子編集:吉武将人音響監督:名倉靖音響効果:森川永子、佐藤理緒録音:椎原操志音楽:EVAN CALLアニメーション制作:スタジオKAI 「あのヒット作品をもう一度アニメ化する」リバイバル作品で、最近最も話題になったのが『地獄先生ぬ~べ~』でしょう。本作は1993年に連載開始した同名漫画の再アニメ化作品。過去に1度アニメ化されたときは、ギャグとラブコメとホラーをてんこもりにしたオムニバス作品として、大ヒットを記録。スピンオフ作品も連載されました。 舞台は小学校。5年3組担任の鵺野鳴介(ぬえの・めいすけ)は、通称ぬ~べ~と呼ばれるダメ教師。普段は生徒にもイジられているけれど、実は「鬼の手」を持つ最強教師なのだった……! しかし、そんな特殊な教師がいるところには妖怪も集うわけで、日夜生徒を守るために妖怪・幽霊と戦ったり、交渉したりするお話しです。 『地獄先生ぬ~べ~』は、怖い話が苦手な方でも安心して視聴できる、ギャグの多さが魅力。ゲラゲラ笑って、ときどき泣いて。緩急があって飽きさせないのに、1話見逃してもストーリーに支障が出づらいオムニバス形式だから、忙しい方も安心して観られるのもおすすめポイントです。 2025年夏公開のおすすめアニメ【3】ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される 出典:『ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される』アニメ公式サイト 作品名ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される放送形態TVアニメ スケジュール2025年7月予定キャストマリー:本村玲奈キュロス:濱野大輝スタッフ原作:とびらの、仲倉千景(双葉社 モンスターコミックスf)キャラクター原案:紫真依監督:北川隆之副監督:砂川正和シリーズ構成・脚本:猪原健太キャラクターデザイン:佐藤秋子音楽:夢見クジラアニメーション制作:ランドック・スタジオ 突然ですが、おとぎ話の「シンデレラ」が、なぜ現世に残るほど継承されてきたと思いますか? 私は、疲れた大人の「夢」を、シンデレラが担ったからだと思います。職場で仲たがいする同僚、腹の立つ家族の一言。それらを洗い流してくれる、一発逆転ストーリー。それも、自分から積極的に冒険の旅へ出ずとも、勝手に報われる物語。これぞ、疲れた大人の「救い」だと思うのです。 本作『ずたぼろ令嬢は姉の元婚約者に溺愛される』は、現代のシンデレラ・ストーリー。家族にいびられて育った主人公、マリーが、姉の死に伴い代理としてある男性のもとへ結婚することになります。その男性がスパダリ(※完全無欠のスーパー彼氏のこと)で、これまでの不幸をなかったことにできるほど、主人公を溺愛してくれるのです。 ええ、都合のいい物語ですよ。けれど、主人公に都合の悪い物語のどこに、感情移入する余地があるでしょう。真剣に正座して観たくなるアニメがあってもいいし、「あ~もう無理~疲れた~」と言いながら、癒されるために観るアニメがあってもいいのです。 私は原作小説を全て読みましたが、この作品は何より各話が面白い。単なる「私って何もしてないのに愛されちゃって最強!」で完結しない、ハラハラ・ドキドキ要素があります。それがアニメでも見ごたえにつながると信じているため、おすすめ作品にリストアップしました。 2025年夏公開のおすすめアニメ【4】桃源暗鬼 出典:コラボカフェ 作品名桃源暗鬼放送形態TVアニメ 日本テレビ、ほかスケジュール2025年7月予定キャスト一ノ瀬四季:浦和希無陀野無人:神谷浩史皇后崎迅:西山宏太朗屏風ヶ浦帆稀:石見舞菜香矢颪碇:坂田将吾遊摺部従児:花江夏樹手術岾ロクロ:三浦魁漣水鶏:愛美スタッフ原作:漆原侑来(秋田書店『週刊少年チャンピオン』連載作品)監督:野中阿斗監督補佐:橋本裕之シリーズ構成・脚本:菅原雪絵キャラクターデザイン:網サキ涼子美術設定:別役裕之美術監督:Scott MacDonald色彩設計:多田早希撮影監督:芹澤直樹CG監督:福島涼太編集:岡崎由美佳音響監督:飯田里樹音楽:KOHTA YAMAMOTO音楽制作:ポニーキャニオンアニメーション制作:スタジオ雲雀 あなたは、小さいころに「桃太郎」の物語を読んで、不思議に思ったことはないでしょうか。 「どうして何の落ち度もない鬼が、桃太郎に倒されなくてはならないのか?」 桃太郎は圧倒的強者として鬼を虐殺し、財宝まで強奪する。これが正義の側であっていいのでしょうか? この問いに「鬼の側」から答えてくれるのが、『桃源暗鬼』です。 父の敵を討つため、鬼が若手を育成するための施設・羅列学園に入学する主人公の四季。四季が鬼としての力を覚醒させる一方、敵の「桃太郎機関」は、鬼を一斉排除しようとしていた……。鬼と桃太郎が異なる「正義」を抱き、大志のために衝突するシンプルで重厚なストーリーに引き込まれます。 そして、自らの血を武器化して戦うド派手な戦闘シーンも、アニメだからこそ映えるはず。制作会社のスタジオ雲雀は、『暗殺教室』などを過去に手掛けており、キャラクターが俊敏に動くシーンをどう設計するかに期待が高まります。直観ですが、第2期までは必ず制作決定しそうな注目作で、第1期が始まる今だからこそ観ておきたいおすすめアニメです。 2025年夏公開のおすすめアニメ【5】水属性の魔法使い 出典:『水属性の魔法使い』アニメ公式サイト 作品名水属性の魔法使い放送形態TVアニメ TBS、ほかスケジュール2025年7月予定キャスト涼:村瀬歩アベル:浦和希セーラ:本渡楓スタッフ原作:久宝忠『水属性の魔法使い』(TOブックス)原作イラスト:天野英漫画:墨天業監督:佐竹秀幸シリーズ構成:熊谷純キャラクターデザイン:小堤悠香アニメーション制作:颱風グラフィックス×Wonderland 『水属性の魔法使い』は、「異世界転生もの」といわれるジャンルの作品です。「異世界転生」とは、現実世界でトラックに轢かれるなどして死んでしまった主人公が、異世界で人生をやり直す物語のこと。通常、この手の物語では主人公が最強の魔法を身に着けていたり、なんでも願いが叶う加護を受けていたりするものですが、この主人公はまあまあ努力型。 しかも、本人はせっかく転生したのだから……と、まったりスローライフを考えるも、その願いむなしく敵が襲ってくる、むしろ現世より過酷な経験を積みます。そのおかげもあって鍛え抜かれ……という、観ているだけで「がんばれ」とつぶやきたくなるストーリーがおすすめポイントです。 本作の面白さは、通常の「異世界転生作品」にはない「年月の経過と、場面の変化」です。作品の序盤で主人公は転生してから20年の時を過ごし、もはや転生前の寿命を超えてしまいます。しかも、スローライフ志向なら最初の家にとどまるかと思いきや、世界中を旅することになる。だからこそ、名作ファンタジー作品のような重みのあるストーリー展開が見られます。 ……って、簡単に書きましたけれども、ということはその分アニメーターさんが背景画像を多数描かないといけないわけで、「現場泣かせの作品だなあ」というのが私の所見です……。そういう意味では、制作会社の力量を見たい! というのが、ヲタク視点では楽しみ&おすすめポイントですね。 2025年夏公開のおすすめアニメ【おまけ編】ダンダダン 第2期 出典:集英社 プレスリリース 作品名ダンダダン 第2期放送形態TVアニメ MBS, TBS系28局「スーパーアニメイズムTURBO」枠にてスケジュール2025年7月予定キャストオカルン<高倉 健>:花江夏樹モモ<綾瀬 桃>:若山詩音星子:水樹奈々アイラ<白鳥愛羅>:佐倉綾音ジジ<円城寺 仁>:石川界人ターボババア:田中真弓スタッフ原作:龍 幸伸(集英社「少年ジャンプ+」連載)監督:山代風我、Abel Gongoraアニメーション制作:サイエンスSARU そして、冒頭で「シリーズものは選ばない」と言ったにもかかわらず、あえておすすめの2025年夏アニメに入れさせていただきたいのが『ダンダダン』第2期。ストーリーは複雑怪奇、ホラーで、SFで、ギャグで、恋愛で、感動で……そう、エンタメの全部をぎゅっと詰め込んだ傑作が『ダンダダン』です。 非ヲタの方にあえてたとえるなら、『スパイダーマン』『アベンジャーズ』に代表される、MARVEL作品に近いかもしれません。カッコよくて、ちょっぴりおバカで、青春で、アクション。『ダンダダン』は、私たちがエンタメに欲しているものを、全部盛りにしてくれた作品です。 主人公は高倉健と綾瀬桃のダブルヘッダー。宇宙人の存在を信じる「オカルン」こと高倉健と、祖母が霊媒師の「モモ」が、喧嘩の果てにチャネリングと心霊スポット訪問をしたところ、本物のUFOと妖怪に遭遇してしまい、命をかけた戦いをすることに……という、ドタバタから始まる物語です。 『ダンダダン』はストーリーが始終ドタバタしているので、目が離せないアニメ作品です。まったりアニメを視聴したいスローライフ好きは本稿の冒頭に紹介した『雨と君と』でも見ていただいて……。本作では特撮のプロもうなる怪獣のデザインや、超速で動くアニメーションの美しさがたまらない! まるで映画のように迫力たっぷりの戦闘シーン、そしてボロボロ泣かされるサイドストーリーの完璧なサンドイッチに、心をやられることでしょう。 『ダンダダン』第1期はABEMA、Netflix、U-NEXT、Amazonプライムのすべてで配信されているため、今からでもストーリーを追いかけやすいのがおすすめ理由の一つ。さらに『スパイダーマン2』のように、2期から見始めても十分に楽しめるはずです。あまり考えず、ぽちっと視聴してみてください。 第1期のオープニング曲を担当した Creepy Nutsの「オトノケ」も名曲ですしね! https://www.youtube.com/watch?v=Nw_XzGZ35As 2025年夏公開のおすすめアニメをもとに、視聴作品を決めてみよう この記事では、2025年夏に公開予定のアニメ27作品のなかから、ヲタクでない方にもおすすめできる6作品をピックアップいたしました。今年は年初からいいアニメが多くて、ヲタクは嬉しいものの、非ヲタの方がついてこられるか心配……! というわけで、初心者でもとっつきやすく、しかも今から「まず30時間正座して前シリーズを観て」と言われずとも楽しめる作品をご案内しました。これで日本のアニメを好きになってくれる人が一人でも増えてくれたら、嬉しい限りです!

「機動戦士ガンダム ジークアクス」が話題の今こそ見ておきたい富野アニメの到達点「伝説巨神イデオン/発動篇」

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「「機動戦士ガンダム ジークアクス」が話題の今こそ見ておきたい富野アニメの到達点「伝説巨神イデオン/発動篇」」。フミコフミオさんが書かれたこの記事では、「伝説巨神イデオン/発動篇」への偏愛を語っていただきました! 「機動戦士ガンダム ジークアクス」面白かったね。 https://twitter.com/G_GQuuuuuuX/status/1894311841855410291 みなさん、こんにちは。ガンダムの新作「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)」、劇場でご覧になりましたか。面白かったですね。未見の方のために、ネタばれしないようにギリギリの線で感想をいうと、前半はめっちゃ「ギレンの野望」でしたね!後半の展開も、スタジオカラーらしい作品になりそうで、テレビ本放送に向けて期待は高まるばかりでございます。 「ギレンの野望」部分に突っ込みをいれるとしたら「シャア・アズナブルさんは戦況を変えるほどの強キャラじゃなくね?パプテマス・シロッコ様曰く、ニュータイプのなりそこないですよ」くらいでしょうか。とにもかくにも、二十年以上前の大昔に「ギレンの野望」シリーズを遊びまくった人間なので、あの展開は琴線に触れまくりでございました。 けれども、「これはガンダムですか……?」もうひとりのリトル自分から問いかけられたら「うーん」とうなってしまう、ファーストガンダム至上主義者でもある。楽しめたし、クオリティも高かったので勢いで「あえて言おうガンダムであると!」と言ってしまいたい衝動にかられるが、やはりそれでもガンダムなのかと問われると即答しかねてしまう。なぜかというと、富野由悠季大先生が関わってないから。御大という存在がガンダムをガンダムたらしめているからである。 少年時代、毎年発表されていた富野由悠季御大アニメに触れて影響を受けて育った世代なので、富野成分が欠落していると物足りなさを感じてしまうのだ。もちろん御大が絡んでいなくても面白いガンダム作品はあるけれども(近作だと「水星の魔女」も変わっててよかった)、御大が作るガンダムは特別なのだ。「ジークアクス」は、劇場公開された冒頭部分であれほどの期待値の高い面白い作品を作れるのなら、ガンダムという枠組みに頼らずに新しいものを作ったほうが…とも思ったりする(でも楽しみ)。 富野作品の極北「伝説巨神イデオン」 https://www.youtube.com/watch?v=7H0kxW8qhmQ 異論はあるのを覚悟しておりますが、機動戦士ガンダムの生みの親である富野由悠季大先生によるハードコア路線の到達点が「伝説巨神イデオン」である。まずストーリーが無駄に壮大。リアルロボット系の機動戦士ガンダムに対して「伝説巨神イデオン」は超リアルだ。地球人が地球圏を飛び出して外宇宙を開発中に、辺境のソロ星で異星人バッフ・クランと接触。戦闘に発展。主人公コスモたちは遺跡から出てきた巨人イデオンと宇宙船ソロ・シップに乗ってバッフ・クランと戦うことになる…というもの。ガンダムに比べるとアバウトでスケールが大きくてとてもいい。 遺跡であるイデオンがどういうわけか合体前はトレーラーのような形をしており、かつA・B・Cの三つのメカに分裂していて、わざわざ合体する仕様なのも、大人になってから見直すと趣深いものがある。「三つのメカが合体して巨大メカになったらウケるよね」「メカがトレーラーだったら子供の心はガッチリだ」という玩具メーカーの担当者を交えた企画会議が盛り上がった様子が目に浮かぶようである。盛り上がった会議のあと、冷静になって見直すと「なんでこんなものが…」となるのである。そういう大人の事情を感じさせて味わい深いのだ。合体前はトレーラー、顔は量産型モビルスーツ(ジム)、無駄に巨大で全身が真っ赤なイデオンがチート級の強さで活躍するのも今でいうギャップ萌えかもしれない。残念なことに、登場が40年早かった。 そのうえイデオンを動かす源である無限力とよばれるイデの強大な力が、不安定かつわかりにくい。ガンダムに登場するニュータイプという存在が鼻くそレベルの小さいものに見えてくる。コスモたちはバッフ・クランと戦いながら宇宙を旅するなかで、たびたび無限力/イデの発動に翻弄され、主要人物たちがばたばたと倒れていくというのがテレビシリーズ。地球圏あたりでちまちま戦っている宇宙世紀もののガンダムとはスケールの大きさがちがうのだ。シャアの操縦するザクが3倍のスピードで動いていてもその空間ごと蒸発させるのがイデオンなのだ。 僕は、小学生の頃、「伝説巨神イデオン」のテレビ放送をリアルタイムで見ていた。主人公メカであるイデオンや敵対する重機動メカのカッコ悪さ(失礼)や、揃いも揃って我がままで共感できない登場人物たちに耐えながら見続けていたのは、いつか面白くなるのではないか、だってガンダムをつくった人のアニメだから、という根拠の乏しい期待感と湖川友謙さんの絵が大好きだったからだ(湖川さんの名前は当時知らなかったが)。頬骨のあるリアルで美しい登場人物に魅せられていた。ハイセンスな小学生だったのである。 テレビシリーズの最終回に呆然とした。 https://twitter.com/masahashi17/status/1884972294373802129 しかし、小学生目線からは伝説巨神イデオンはいっこうに盛り上がらなかった。一緒に観ていた友達たちは一人、二人と「悪いな。もう無理」といってイデオンから脱落した。イデオンが強すぎたのも大きな原因だったように思える。強いのはいい。だが強すぎはよろしくない。惑星をぶった切るわ、数えられないほどの敵に囲まれても殲滅してしまうわ、強すぎて弱い者いじめをしているように見えてくるのだ。なんやねん惑星斬りって(惑星の裏にいる敵ごと破壊)。 ガンダムのように死線をサバイブするようなヒリヒリした展開を期待しているのに、反則兵器イデオンガンを使って数千の敵を蒸発させるのだから……。反則技と暗い展開に何度も心が折れてしまいそうになった。見続けたのは、当時の家のルールがあったからである。「一度始めたものは最後までやりきりなさい」という亡き父が定めたルールがあり、それを破ったらこづかいが減額されるという厳罰が設定されていた。今も昔もこづかいに縛られている人生なのだ。 それでも終盤、物語が微妙な傾斜で盛り上がっていき、そこで僕は、テレビ版伝説巨神イデオン伝説の最終回を目撃することになるのである。イデオン放送の十数年後のエヴァンゲリオンの最終回にも驚いたが、エヴァの方がまだまとめている努力が見られたのでマシに思えた。イデオンのテレビシリーズの最終回はまさしく突然、唐突に、いきなり、終わった。戦いのなかでこれからどうなるの……佳境に差し掛かった瞬間、画面が止まり、「そのときであったイデの力が発動したのは」というナレーションが流れて終了。 テレビの前で「ぽかーん」である。テレビシリーズを見続けた友達は皆無だったので、突然の最終回について誰ともシェアできずに悶々と過ごした。なんとなく凄いものを見せられたような気はしたが、意味のわからなさがそれを上回っていた。なお、大人になってから「俺たちのテレビ神奈川」で再放送されたイデオンのテレビシリーズを見直したのだが、人間の業が描かれていて記憶よりもずっと面白かった。ただ、小学校低学年のボンクラに、敵対する異星人の子を宿した娘に対する愛憎入り混じった宇宙人のリーダーの葛藤や、種の滅亡に際しても私怨で戦いをやめられない人間の業の深さなんて、わかるわけないっす……。 映画版「イデオン」を劇場で鑑賞した黒歴史 出典:バンダイチャンネル『伝説巨神イデオン』 テレビシリーズのもやもやを解消する劇場版が公開された。昭和57年、小学三年生の夏休みだ。今は亡き父親と劇場へ観に行った。後年、父にそのことを確認したら「覚えていない」といわれた。映画が終わったときに大きなお兄さんたちが拍手をしていたのを覚えているので間違いないが、父からみれば「鑑賞をなかったことにしたかった」のかもしれない。イデオン自体を知らない、心優しい父が劇場版鑑賞体験を、富野風にいえばナノマシンで黒歴史にしても、わからないでもない。それほど意味不明で凄まじい作品だったからだ。 イデオンの劇場版はテレビシリーズの編集版である『接触編』と真の完結編である『発動篇』の二部構成。打ち切りになったテレビシリーズを二部あわせて3時間オーバーの大作として劇場公開したのだから、暴挙である。『接触編』はダイジェスト版でまあこんなものだよね、という内容なので令和の時代に見る価値はないと思われるけれども、完全新作の『発動篇』がヤバい。令和の時代にこそ観てもらいたい作品だ。 『発動篇』のストーリーはシンプルである。つか、テレビと一緒。結末は「敵味方一人残らず全滅」。地球人類と異星人バッフ・クラン双方とも全滅である。主人公コスモたちソロ・シップご一行と、バッフ・クラン側ドバ総司令官の軍勢が前線で戦っているあいだに、イデの力の発動で双方の母星に隕石が降り注いで滅亡しているため、前線のメンバーが両勢力最後の生き残りというハードコアな展開。イデの力によって殺し合いをさせられてイデオンと巨大兵器ガンドロアが相打ちで爆発、最後に残った全員が爆発に巻き込まれて死亡という壮絶な展開となる。主人公コスモは最後まで戦ったけど爆死。母星が滅びているのに何してんの…という人間の業の深さを思い知らされるすさまじさよ…。 「発動篇」はイデオンBメカ担当のベントさんに注目しよう。 https://twitter.com/ShiningAcguy/status/1872133056628412888 こんな結末から書いてしまってもまったく問題ない。そこまでの過程が凄まじいからである。まず冒頭のオープニングから異常である。とある惑星で知り合って主人公コスモと懇ろになる青髪のキッチ・キッチンという少女がいる。彼女はオープニングの段階で無事死亡する。死にざまがハードコアである。コスモの目の前でバッフ・クランの空爆で死んでしまうのだが、首だけになって血を吹き出しながら空を飛んでいくのがコスモの被るヘルメットのバイザーに映るのである。コスモが「バッフ・クランめー」と絶叫してタイトルが出る。オープニングのタイトルが出るまでにすでにハードコア。 なお、キッチ・キッチンはテレビシリーズではあっさりと死んでしまうので劇場版のためにわざわざ生首描写が作られたことになる。なお、ギジェというバッフ・クランから地球側に寝返った重要なキャラクターも「これがイデの力の発現かー」と絶叫して下半身を吹っ飛ばされてオープニング中におまけのようにあっさり死亡することをお伝えしておきます。 ハチの巣にされるヒロイン(?)カーシャや顔面に弾丸を打ちこまれるカララ、頭を吹き飛ばされる幼女アーシュラ、「発動篇」が語られる際にかならず指摘される登場人物たちの壮絶な死にざまであるが、本作未体験の方にはイデオンBメカのパイロット・ベントさんに注目していただきたい。Bメカのメインパイロットはモエラ、ギジェと代々死んでいるのだが、なぜかベントだけはサバイブしている。そんな彼も「発動篇」で死亡するが、僕はどこで彼が亡くなったのかまったくわからなかった。それくらいあっさり。物好きな人にはぜひとも彼の最期を見つけて供養していただきたい。 凄惨な「発動篇」に魅了されるのは主人公がイデだから。 https://www.youtube.com/watch?v=9MUyTb5p964 発動篇の真の主人公は「イデ」の力である。主人公コスモは狂言回しだ。地球側とバッフ・クランを滅亡させるまで戦わせるイデこそ真の主人公にふさわしい。生命の存続がかかっているのにエゴと私怨をむき出しにして戦いをやめようとしない登場人物たちをイデは滅びの道へ突き進ませる。登場人物たちを徹底的に突き放して描写しているのが「発動篇」の凄みだ。登場人物たちにも容赦がない。だから、女性や子供にも平等に凄惨な死が訪れる。そして「発動篇」の魅力は、イデという圧倒的な力に振り回されながらも、一部の登場人物たちが生きるために最後まで抗う姿にある。 「発動篇」の主人公コスモとカーシャのやり取り。「分かったぞ、イデがやろうとしてることが。イデは元々知的生命体の意志の集まりだ。だから俺達とかバッフ・クランを滅ぼしたら、生き続けるわけにはいかないんだ。だから新しい生命を守り、新しい知的生物の元をイデは手に入れようとしているんだ」(コスモ)「じゃあ、あたし達はなぜ生きてきたの!」(カーシャ) コスモやカーシャはイデの意図に気づくが、それでも最後まであがいて生きようとする。カーシャを失いながらも、イデの意思に最期まで抗って戦おうとするコスモの姿に胸を打たれるのである。 「みんな星になってしまえ」というヒロイン・カーシャの台詞がある。そのとおり登場人物たちは皆星になって、全裸で因果地平の向こうへ飛んで行って終わるというトンデモなラストで「発動篇」は幕を閉じる。全滅という悲惨なエンドだが不思議な爽快感のある怪作である。こんな作品は富野由悠季御大しか作れない。なお、その昔、ケチで物欲の乏しい僕が、入手困難でプレミア価格がついていた「接触篇」「発動篇」のDVDをオークションでおとしたくらい(ヘッダー画像参照)、富野作品とイデオンの業は深いのだ。 「機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)」にはイデオンくらいぶっ飛んだ物語を期待している。「いやー富野さんのガンダムより凄かったよ」といえるようなガンダム作品になることを期待している。そろそろ僕ら富野作品で育ったオッサンを富野から卒業させてくれるくらいのガンダムを見せてくれよ。マジで。

すべては子供たちのために――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(3)

偏愛・脳汁を語るサイト「ヲトナ基地」では、多数の「愛しすぎておかしくなるほどの記事」をご紹介してまいります。 ヲトナ基地で今回紹介する記事は「すべては子供たちのために――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(3)」。海燕さんが書かれたこの記事では、宮崎駿への偏愛を語っていただきました!連載第一回「天才対天才、血まみれの思想闘争――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(1)」はこちら連載第二回「巨匠ミヤザキの欺瞞のパンツ――なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか(2)」はこちら   連載第三回である。 過去の第一回および第二回では、日本アニメーション界の宮崎駿が強烈な「ニヒリズム」を抱え込んだ人物であることを見、また、その虚無的な思想を欺瞞のヴェールで隠蔽しようとする傾向があることを見た。 宮崎にとっての手塚とは、その漆黒のニヒリズムを体現したある種の自身の陰画なのではないか、とも思えてくるとろである。自分自身の否定するべき可能性であり、戦うべき鏡像。 むろん、その根底にはいまなお消しがたい畏怖があり、同じ創作者としてのリスペクトがあると考えるべきであろう。 あるいはそこには何らかの個人的隔意も含まれているのかもしれないが、ただそれだけのためにかれが手塚を批判し否定すらしているものと受け止めるべきではない。すべては日本を代表する最大最高の天才作家どうしのあまりにも高度な思想対立なのである。 以下では、あらためて宮崎にとってのマンガとアニメーションが意味するものを見ていきたい。 「子供たちにニヒリズムを語ってはならない」 出典:宮崎駿『千と千尋の神隠し』 手塚治虫は戦後マンガ界最大の巨人であり、戦後マンガ界を特徴づけた人であった。手塚のアニメーションの仕事を否定的に捉える宮崎ですら、かれのマンガにおける仕事を礼賛していることは興味深い。 宮崎の言葉を信じるなら、かれが批判するのはあくまで手塚のアニメ作家としての一面だけであって、マンガ家としての手塚はやはり偉大な先人というべきなのである。 それでは、なぜ、宮崎は手塚のアニメーションにおける仕事をどこまでも否定的に評価するのだろうか。単に手塚のアニメ作家としての技量が稚拙なものに留まったからに過ぎないのか。 そうではない。やはりそこには「ニヒリズム」と「ヒューマニズム」の問題を見て取るべきであろう。 宮崎によれば、手塚はほんらい、ニヒリズムに凄みを見せた作家であった。そのニヒリズムには、宮崎ですら「畏怖」を覚えるほどの魅力があった。 しかし、かれはそのニヒリズムをヒューマニズムという欺瞞的な作法で覆ってしまった。そのことにより、手塚の世界は矛盾をきたし、致命的な問題を抱え込むこととなった。それが宮崎の見解であると、ひとまずは、そういえる。 とはいえ、ここで重要なのは、手塚のニヒリズムを宮﨑は肯定的に受け止めているのか、ということである。 かれはニヒリズムを嫌い、それを超克しようとこころみているのではなかったのか。いったい、宮崎にとってニヒリズムとはどのような位置付けになるのだろう? 一見すると宮崎の主張は自己矛盾しているようにも思われる。かれは手塚のニヒリズムを肯定しているのか、否定しているのか? そうなのだ、こういった宮崎の手塚に関する発言はきわめて錯綜しており、一見すると無理を孕んでいるようにも思えるのだ。 だが、よりていねいに整理していくと必ずしもそうではないことがわかってくる。 まず、重要なのは、宮崎が「マンガ」と「アニメ」というメディアを分けて考えていることだ。 宮崎にとってはマンガは「大人向け」でもありえるメディアであるのに対し、「アニメ」はあくまで「子供向け」のメディアである。いい換えるなら、アニメとはあくまで「子供たちのために」作るものであるということになる。 これは宮崎が一貫して掲げている信念であり、かれの創作における思想の根本にあるものである。宮崎がアニメーションの新作にこだわりつづけるのは、それが子供たちへのメッセージであるからなのだ。 『千と千尋の神隠し』、『崖の下のポニョ』といった作品も、それがあくまでも「子供向け」であることを頭に入れておかなければ理解できないことになるだろう。 アニメにおいては、自分のために作品を作ってはならない。あくまでもどこまでも子供たちのためにこそ作るのだ。それが、宮崎の基本的な考えかたなのである。 宮崎がくりかえし述べるのが「子供たちにニヒリズムを語ってはいけない」という言葉である。これはつまりいい換えるなら、「子供向けの表現であるアニメーションにおいて、ニヒリズムを表現してはならない」ということになる。 逆にいうなら、大人向けでありえる表現であり、また個人による作品ということになるマンガにおいてはニヒリズムを表現することは許される、という意味にもなるであろう。 宮崎が手塚のニヒリズムに畏怖を感じたと語るのは、この意味では理解できることである。ただ、宮崎がこのように子供たちに配慮をしながら作品を作っているのに対し、手塚は違った。 かれはアニメであろうとマンガであろうとかまわず、ニヒリズムを(ときにヒューマニズムで粉飾しながら)描いた。そこが宮崎にとって気にくわないポイントなのではないか。 「神様」手塚治虫の創作における姿勢とは 出典:宮崎駿『風と谷のナウシカ』 手塚治虫という作家についてあらためて考えてみよう。かれは世間では「手塚ヒューマニズム」の作家として考えられている。 その代表作として見られる『鉄腕アトム』にせよ、『火の鳥』にせよ、『ブラック・ジャック』にせよ、「人間であることは美しい!」「生きていることは素晴らしい!」と高らかに訴えかけるテーマの作品として捉えられている。そういい切っても良いであろう。 だが、じっさいにその作品を読んでみると、とうていそのようなきれいごとでは割り切れない虚無の深淵が見えてくる。手塚は戦後マンガに生々しいエロティシズムや底知れないニヒリズムを持ち込んだ作家であり、そのことによって歴史に名を残しているのである。 それでは、手塚はそのような虚無的な思想の人であったのか。そうなのかもしれない。しかし、そういい切ってしまうのには何か違和感を覚える。 たとえば『風の谷のナウシカ』という戦後日本を代表する空前の大名作を一読してみればすぐに判然とするように、宮崎には紛れもなく思想があり、その思想にのっとって作品を生み出している。その意味で、宮崎は思想の人である。 だが、手塚はどうだろう。私見では、かれのニヒリズムもヒューマニズムも、本質的な思想ではない。そもそも、手塚がある思想なり主題を伝えるために作品を作っているとは思われない。 そう、手塚はまず何よりもエンターティナーであり、そしてストーリーテラーであった。むろん、かれにもそれなりのテーマはあっただろう。だが、いってしまえば、それが手塚の作品の本質的な魅力ではない。 手塚はまず何よりも物語が波乱万丈であること、面白くてたまらないことを追求した作家なのである。いってしまえば、そのために「ニヒリズム」も「ヒューマニズム」も利用したに過ぎない。 手塚は決して「思想の人」ではなく、その作品に一貫した思想を読み取ったところで、じつはさして魅力的なものは見えてこないのである。 なるほど、手塚作品にも思想はある。深刻なテーマは数知れない。だが、手塚においてはそれはあくまでも物語に奉仕する形でのみ使用されるべき従属物であるに過ぎない。 つまり、「面白いことがいちばん大切」であり、「面白ければ何をやっても良い」、それが手塚治虫の創作における姿勢であった。 対して宮崎は異なる。かれはマンガにおいては重厚な思想をともなう『ナウシカ』のような作品を描いたし、アニメにおいては「あくまでも子供たちのために」作品を作りつづけた。 庵野秀明が批判しつづけるように、その「思想」は、かれの天才に対して足かせにもなっているようにも思われる。 かれほどの才能ならもっと自由に、もっと奔放に、アニメーションを生み出すことも可能なのではないか。観客はむしろそれをこそ求めているのではないか。そうも思われるが、宮崎はあくまでも「子供たちのために」アニメを作ることにこだわった。 かれの作品は決して「何でもあり」ではなかった。その意味では、手塚と宮崎の「思想対立」とは、単にイデオロギーの違いによる対決というよりは、無思想対思想のたたかいなのである。 すべては子供たちのために、という嘘 出典:宮崎駿『もののけ姫』 宮崎はひとりのマンガ作家として『風の谷のナウシカ』という戦後日本を代表する空前の大名作を生み出してなお、すぐにアニメの仕事に帰還した。 そこから『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』といった、スタジオジブリを超えて邦画史上でも最大級といえるヒット作が続くことになるのであるが、あのダークな『ナウシカ』を経ているにもかかわらず、それらもまたあくまで「子供向け」の作品であった。 くりかえすが、ここでいう「子供向け」とは、内容がチャイルディッシュであるということではない。子供たちへ向けたテーマとメッセージを込めた作品ということなのである。 宮崎の認識では、子供たちとはこの世界の未来をになっていく存在なのであり、だからこそかれらに対して虚無を、絶望を説いてはならない。ほのかなものではあれ、希望をこそ見せてあげるべきだ。 宮崎はそのような「思想」のもと、作品をつくりだしつづけた。少なくとも『風立ちぬ』に至るまではそうだったはずである。だからこそ『紅の豚』などは、あってはならない、あるべきではない作品なのである。 宮崎の手塚への批判、もっというなら否定は、この観点から見たとき、初めて真に理解できる。 それは、岡田斗司夫がいうように個人的に「何かあったのではないか」といった低い次元の話ではない。そして、また、ただ手塚がアニメーターに賃金を下げる行為に手を染めたといったことへの反感に留まるものでもない。 宮崎が手塚を否定しようとするのは、つまりは手塚の無思想性を拒絶しようとしているのである。 「大人向け」のメディアでもありえるマンガはともかくとして、アニメーションはあくまで子供たちのために作られるべきものだ、そこに無節操に「ニヒリズム」やら「ヒューマニズム」を持ち込むべきではない、それが宮崎の態度だとしたら、かれの発言には一貫性が感じ取れる。 そして、この宮崎の批判は、手塚治虫に対してのみならず、手塚が導いた日本のマンガやアニメーション全体に対しても向けられているであろう。 日本のマンガにしろ、アニメにしろ、その特徴は「節操がない」ところにある。それこそ手塚が描き出したようなエロティシズムやニヒリズムやヒューマニズムが、そこでは臆面もなく多用されている。 個々の作家を見ていけばもちろんそれなりの主題も思想もあることだろうが、全体として考えると、その現状はカオスとしかいいようがないように思われる。 そこにあるものは「面白いことがすべて」、「物語こそが神だ」という世界であり、その「光と闇」は宮崎のような作家にとって我慢がならないほど低俗なものに思われても不思議ではない。 本質的にこの世界に絶望しているニヒリストである宮崎の思想的態度は、シンプルである。すべては子供たちのために。このことに尽きる。 だが、それはほんとうに子供たちのためなのだろうか。むしろ、宮崎のほうこそが子供たちに頼り、子供たちのなかに希望を見いだすことでかろうじてニヒリズムの深みに嵌まり込まずにいられるということなのではないだろうか。それほどにかれの絶望は深い。 いっぽう、手塚はニヒリズムともヒューマニズムとも受け取れるような膨大な作品を生み出しつづけながら、生涯、ついに人間と世界に絶望し切ることはなかった。 かれは楽観的だったのだろうか。かれの人間観は宮崎のような暗い絶望を欠いているのか。そうではないだろう。いままで縷々述べてきたように、手塚にも深い絶望はある。 しかし手塚においては、それはあくまで「物語のために」活用されるべきものだったのだ。宮崎において子供たちが、あえていうなら幻想の子供たちが神であるように、手塚においては物語の躍動こそが神であった。 ふたりの違い、もっというなら宮崎のアニメーションと日本の他の「アニメ」との違いをわかりやすく表現するならそういうことになる。 これが、これこそが「なぜ宮崎駿は手塚治虫を否定するのか」、その問いの答えである。いかがだろうか。ご納得いただけただろうか。 読者の皆さまには、全三回に及ぶ連載をお読みいただけたことに感謝する。今後とも「ヲトナ基地」ではぼくの偏愛する作家たちを取り上げてその魅力を語っていくつもりだ。ぜひ、継続してお読みいただきたい。 宮崎や手塚についてもいずれまた形を変えて語ることもあるであろう。そう――まさにかれらこそがぼくにとっての創造の神々なのだから。